ひと月の食費が二人でだいたい3万円ちょっと。一食あたり一人約150円。二人ともほとんど家にいて、ほぼすべての食事を家で作って食べる。この金額で酒も飲みたいだけ飲んでいる。
どの食事も非常に美味しい。僕の味覚が低レベル、ということではないと思う。親にもパートナーにも友人にも、お前は舌が肥えていると言われるし、うちに来てくれる人もたいていうちの料理は美味しいと言う。もしそれがお世辞だとしたら、みんな相当な役者だ。
食材はインターネット通販かよつばの個配か近所のスーパーで買う。お米は親戚が作っているのを相場よりはおそらく安く購入しているが、それ以外は特別なルートで買っているようなものはない。
いつも安くて美味しいものを食べていると思う。食べたいものを食べたいだけ食べているとも思う。だから、こういうことについて、僕は「節約」しているという意識はあまりない。
「節約」という語に僕は「我慢している」というニュアンスを感じるけれど、そういうことはしていない。欲しいものを欲しいだけ買っていて、その金額がこの程度にしかならないということだ。
我慢はしていない、けれど、どこか後ろめたさはある。
日本の社会全体でこんな食生活を送ったら、日本経済は確実に破綻してしまうだろう。こんな金額の消費だけでは、インターネット通販は成立しないかもしれない。よつばもスーパーも破綻するのではないか。
そうしたら僕の食生活を支えているものたちは何も手に入らなくなる。
「節約」して安く食材を手に入れることは一般に美徳とされている。賢いことだとされている。でも本当にそうなんだろうか。すくなくとも「美しい」ことなんだろうか。
欲しいものはすべてお金を出せば買うことができ、それらを玄関まで届けてくれる輸送ネットワークがあり、いらなくなったゴミは家の前においておけば回収される。そういう社会システムの上で僕の低金額で充足した生活は成り立っている。
これは貴族だと思う。貴族の生活だと思う。都に居ながらにして全国の優れた食材が手に入る。自分自身では作らず、それを作っている人、運んでいる人の労働に対して、相対的に僅かな対価で美味を得る生活。
こういうことに僕はどこかで後ろめたさを感じている。
恵まれた僕の場所は誰かの「放蕩」ともいえる莫大な労働によって成り立っている。それを「節約」する「我慢して食べる」あるいは「我慢して食べない」なんて冒涜だと僕は思っている。