November 30, 2016

【376】小林健司さんの「ことわ坐」のはじまりによせて

いよいよ、なのだなあ。

という気がします。

けんちゃん(小林健司さん)とは冗談交じりに、ということは大半は本気で「僕たちはずっと壮絶な撤退戦を続けている」とよく話していました。

以前はできていたことがどんどんできなくなっていってしまう。ほんとにやりたいと思うことをやろうとするとなかなかうまくいかない。どうしてもやるとなると、膨大な量の何かを費やしてほんの少し進むにすぎない。

そういうことが続いていたからです。

でもそんななかでようやく見えてきたことがあって、こんなふうにしかならないことをやり続けていけば、最初は見えていなかった、それどころか存在すらしていなかった景色の中に、いつしか自分がいることに気づくということです。

こういうことを考えていると、中沢新一が『アースダイバー』の冒頭で紹介していたアメリカ先住民の神話を、僕は思い出します。

世界が一面、水に覆われていたとき、多くの動物が水底に潜って泥を取ってこようとした。けれどできなかった。
最後にカイツブリ(一説にはアビ)が勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しかった。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどり着いた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料にして、私たちの住む陸地は作られた。(中沢新一『アースダイバー』)
今つまり、そこに陸地ができて、家が1軒たったところです。

まだまだ陸地は小さいけれど、でも陸地ができたのは確かなことで、そこはやがて大陸となって、多くの人や動物がその上で飛んだり跳ねたり駆け回ったりして過ごすことができるようになる。

大陸を作るようなことをやっているなんて大げさだけれど、僕はそう思うのです。そのためには水底の泥を一握り掴んでくるようなことが必要だった。溺れそうになりながら。

だから琵琶湖畔にけんちゃんとなっちゃんが自分たちで建てた家は、ただの家ではありません。

そこで、何かがはじまる場所だと思います。

2017.1.7-9
「ことわ坐」 はじめます! (人とことばの研究室)

November 27, 2016

【375】「自給自足」でいう〈自〉とは何か。

「自給自足」という言葉を最近あまり聞かなくなった。
とあえて言ってしまうけれど、少し前までは割りとすんなり聞いていた。

僕自身なんとなく自給自足的な方向性を持って生活の行方を見ていたような頃があった。
と思い出せる。

でも僕は今、この言葉に対して「そうではない」感覚がある。

一般に自給自足という言葉は「食材を自分で作って自分で調理して食べる」というような〈範囲〉で使われることが多いと思う。

最初に結論めいたことを書いてしまうと、自給自足という概念はこの〈範囲〉についての認識の仕方の一つである。と思う。

以前わりとよく見かけたのだけれど、上記のような範囲で、つまり食材に関する範囲で自給自足を達成している、あるいは目指している人が、ユニクロのフリースを着ていた。

「ユニクロのフリース」が時代を感じさせるけれど、その時代感はたぶん正しくて、「(食の)自給自足」機運が盛り上がったのがユニクロのフリースがブレイクした時期に重なるのだと思う。

ユニクロのフリースは当時の日本企業が達成した国際経済における一つの先端で、化学繊維を用いて、中国の低労働賃金で、同一規格のものを大量生産し、日本という先進国経済で安価に大量に売りさばくというもので、その存在自体は当時の「(食の)自給自足」志向の対局に位置していると思う。そういったものからの離脱が「自給自足」志向であったはずだ。

「矛盾してるじゃないか」という指摘がしたいわけではない。

当時の「自給自足」という言葉が指し示すある感じがいったいどういうものであったのかを、今の時点で文字にしたいというのが僕の今の意識だから、別に矛盾しててもよくて、ようするに安くて温かい「ユニクロのフリース」はかなりの必然性を持っていたということだろう。

ユニクロのフリースが特に安価で高機能であるという以前に、衣類の自給自足はそもそも難易度が非常に高い。化学繊維は論外として、論外というのは、石油から繊維を「自分で」作る(自給する)のはそんなに難しくはなさそうだけど、これはこれで話がずれるし、「石油を自分で作る」のに至っては人類の時間すら超えることになる気がする。なので、例えば綿花や麻を栽培して糸にして布を織るということになるのだけれど、これは不可能ではないにしろ、畑や田んぼで食材を得ることに比べると難易度が跳ね上がる。稲わらを編んだものを着るなら比較的簡単かもしれない。あるいは裸で生活するとか。

いずれにせよ、「自給自足」の対象物として大半の人の意識から衣類は除去されていた。自給自足の〈範囲〉に含まれていなかったということだ。衣類だけではなく、結構たくさんの身の回りのものが除去されている。難しそうなところで例を挙げると、鍋釜、窓ガラス、筆記用具なんかも意外に難しい。

実は「食」に関しても、細かく見ると「自給」が困難なものがある。塩を沿岸部や岩塩が採れるところ以外で自給するのは、高難度だと思う。

自分では作れないけれど、何かと交換して入手することを「自給自足」に含めるためには、もう一段の設定が必要で、「自分で作った食材と直接的に物々交換する」という〈範囲〉が登場する。これに加えて、貨幣や労働を介在すると、かなり込み入った、ということはかなり恣意的で個人的な〈範囲〉設定が必要になる。いずれにせよ〈範囲〉をどこにとるかの問題である。ずっと広げていっちゃうと「自分の労働によって得た金銭的対価をコンビニ弁当と交換する」とかも自給自足に含まれてしまうことになる。

こうやって見てくると「自給自足」が対象としている「モノ」は意外に狭いことがわかる。でも別に狭くてもいいと僕は思う。狭いから「そうではない」と感じているわけではない。

僕は、自分で食べる分の野菜や米を自分で作っている人には敬意がある。単純にいいなぁと思う。衣類だって難度が高いだけで不可能ではないし、自分に必要な衣類その他を綿花や麻から自分で作っている人も実際にいると思う。そういう人に対して僕自身はただただすごいと思う。

だから「対象物やその入手経路に〈範囲〉があること」は、僕の「自給自足」という語に対する「そうではない」感じにはつながらない。

こんなふうに対象物の観点でいえば、「食材の」「米の」「夏野菜の」(その他どんな範囲でも)自給自足は、問題にならないどころか端的に羨ましい。「酒肴の」自給自足なんてとても素敵だと思う。

なので、僕が気になっているのは別の点なのだと思う。

つまりそれは「自給自足」でいうところの〈自〉の〈範囲〉はどうなっているのかで、僕はここに「自給自足」という言葉に対して持っている「そうではない」感じがある。

僕の家では、主にパートナーの澪がやっているんだけれど、庭でちょっとした野菜や果物を作っている。毎年うまくできるのは唐辛子やししとう、大豆もまずまず、今年からぶどうがなるようになったし、にんにくも意外にうまくできた。

家庭菜園レベルだけれど、この程度でも十分に気付くことがある。こういった農作物というものは、気候や天候、土壌の状態に大きく左右されるということだ。つまり、〈自分で〉作ってはいるけれど、〈自分で〉はどうにもならないことによって作物はできたりできなかったりするということだ。

僕たちの庭が作物が取れる程度の土壌として維持されているためには、まず、その場所を僕たちが自由に使うことができなくてはならない。そのためには土地の所有という社会的な権利が必要になる。この社会的な権利は僕たちだけでは、どうにもならない。社会がそのようになっている必要がある。

いつものように、こういうことは単なる屁理屈なのかもしれない。でも、どうしても僕には、〈自分で〉というところの〈範囲〉として、そういったことまでが入ってくる。

僕だけではない人間(社会)と、人間の範囲を超えた自然によって、食べ物を僕たちは作ることができている。この時、僕の〈自〉の〈範囲〉はとても小さい。

こういったことは、いわゆる「自給自足」的な生活をしている人であれば、嫌でも気がつくことで、そのことを受け入れるということも含めて、生活しているという実感を持っているのではないかと思う。

だから、たぶん、「自給自足」的生活をすればするほど、〈自〉給自足という言葉が使いにくくなっていくと思う。そしてきっと、自分で作ったものと他人が作ったものを交換することは、とてもありがたく思うだろうし、自分で作ったものがお金に替わるのも同じくありがたいことだろう。そのお金を使って自分で作るには難度が高いものを購入することにも抵抗はないだろう。そういうことを「自給自足」の〈範囲〉に含めるかどうかなんてどうでもいいと感じるだろう。

繰り返しになるけれど、いわゆる「自給自足」的な生活自体には憧れのようなものも含めて敬意がある。ただ、それを「自給自足」という言葉にしてしまうことには「そうではない」感じがある。

わかりやすさ、インパクトの有る言葉ではあるから、ここから何かが始まるきっかけにはなるだろうけれど、少し行けばむしろ柵(しがらみ)として働きかねない。

そんなことを考えた。

November 26, 2016

【374】楽譜を読む世界。単純な取り決めから〈世界〉が出来する瞬間。

山本明日香さんのピアノのミニコンサート「楽譜から見える景色」、よかった。

たんに曲を弾くのではなくて、参加者に楽譜が配られて、その楽譜を見ながら明日香さんの話と演奏をきく。

たとえばこんな感じ。
(録音したわけではないので、僕の記憶から)

楽譜にはドミソと書いてある。だからこう(ドミソと音を鳴らす)弾いてもいいんだけど、楽譜を読むと、まずドがあって、そしてそこから3度上がって、さらに3度上がってる。上がってるんです。だから単にドとミとソを鳴らせばいいんではなくて、上がっているということで何を言おうとしているか、そういうことを考える。 
楽譜のはじめを見るとシャープが3つあって、イ長調。イ長調というのはこういう音。長調だから明るいんだけど、ただ明るいわけじゃない明るさ。この響きがこの曲の世界。
ここは、スラーが途中までかかっていて、その次スタッカートが一つ、そしてまたスラー。楽譜通りだったらこんなふう(といってその部分を演奏)に弾いてもいいけど、弾けない。弾けない。全部スラーでもいいのにそうなっていない。どうしてこんなふうになっているのか。だからここはこうなる(といって前回とは全く違うように聞こえる弾き方をする)。モーツァルトという人はほんとに繊細で、こういうのがとても多い。
(ロマン派の)ショパンは(古典の)モーツァルトに似た喋り方をする。
(メンデルスゾーンの無言歌で)ドが5つ続くんですけど、このドは全部違うド。だから同じようには弾けない。

最初のドミソの話は1回目の一番最初だったのだけど、「3度上がって、さらに3度上がってる」のところを明日香さんが身振りを交えながら全身で話すのを見て、僕は鳥肌が立った。

これは「危ない」ことを言ってる。この人は「危ない」。
と、たぶん体が反応したんだと思う。

事実、その後、曲を弾いてもらったときには、音が耳にだけ来るのではなくて、全身を撫で回されるような感じになった。細かく音が連なった曲はさざなみのように、ガンとした和音は鞭のように体に来る。ベートーヴェンの曲なんて、まるでお化け屋敷を歩くように、いつどこに何がひそんでいるかわからない。

弾いてくれた曲はすべて聞き慣れたはずの有名な曲なのに、次の瞬間いったい何が起こるのか予測ができない。拒むこともできない。

何がきこてくるのかわからないのではなくて、何が起こるのかわからない。
音楽を聴くということが変わる体験だった。

演奏家は楽譜を通してやってくるたくさんの要求に応えないといけない。だから大変。
大変だけど、それが出来た時に生じる出来事はものすごい。
〈病み付き〉になる。

たった一つの音符、たった一つのスタッカート、たった一つのスラー、たった一つの記号、つまり単純な取り決めに過ぎない人工物。そんな記号という針の穴のようなかすかな頼りから、一気に時空を超えてその背後にある作家の〈世界〉が出来(しゅったい)する。

それは本を読むことにも通じていて、僕はどうやらこういうことが好きなんだ。

November 23, 2016

【373】よその国の憲法。

日本国憲法の前文はこの数ヶ月、わりとしつこく読んできた。高圧な中でぐにゅっとひねり出されたような不思議な文体をしている。日本国民としてある程度の歴史的背景を知っているから、この憲法が生み出された特殊な状況に由来するのだとということも予測がついて、だから、本当は「一般的な憲法」というものはもっと違った感じで、もっとスタンダードな憲法があり、もっとスタンダードな前文というものがあるのだと勝手に思っていた。

今日(11月13日)、よその国の憲法を数か国、読んでみて、どうやらそういうわけではなさそうだと認識が変わった。

たとえばソ連憲法(1977)や中華人民共和国憲法(1982)の前文(序言)は、極めて長文の生々しい革命的興奮が前面に出たもので、近代的な「非〈神話〉」を創作しようという強烈な意志を感じる。それが「国営放送のアナウンサーが読み上げる」ような声で聞こえてくる。

さらにアメリカ合衆国憲法(1788)。

[前文]われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の静穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。(岩波文庫『世界憲法集』)
こちらは一見すんなりと読める。しかし、一切の外向性を排除した極めて内向きの内容は、僕が知るあの世界の警察たらんとする合衆国の姿とは大きなギャップがある。「われら合衆国の人民」が前提されている強い結束性にもかかわらず、合衆国人民がわざわざ「アメリカ合衆国のために」憲法を制定しなければならないということの脆弱さを背後に感じる。「われら」〈がある〉ということは自明だ。しかし「われら」〈たらんとする〉ことは、自明ではない。そういう強さと危うさを内包している。

ドイツ連邦共和国基本法(1949)の前文には、合衆国憲法のような「われら」が「われら」のために制定したという自己性は薄く、(西)ドイツ国民以外の人間によって書かれたという印象を持つ。「(基本法の決定に)協力することのできなかった、かのドイツ人」といった記述は同胞について言及している感じは薄く、「全ドイツ国民は、自由な自己決定で、ドイツの統一と自由とを完成するように要請されている。」という結語は、ドイツ国民の自戒としてよりも他者から突きつけられたものとして読める。

こういったことが特別な歴史的知識を持たずとも、憲法そのものを文字通りにただ読み、感じたとおりのことを露呈し合うことによって現れてくる。歴史的事実を紐解けば、この素読感はおそらく、正しく裏打ちされるだろう。

それぞれの国の憲法は、その憲法が書かれなければならなかったある状況において書かれている。それはすべて個別の独自性を持ち、独特の契機によって、その共同体自身の個別の姿を描かざるをえない。スタンダードな憲法は、スタンダードな文学作品が無いように、無い。

〈国〉というものも、その共同体自身の独自性によって描かれるもので、スタンダードな国の有り様があるわけではなく、その共同体自身がそれぞれに〈国〉を存在させる。

そういうことが実感できた。

November 22, 2016

【372】国語の教科書。

思うところあって国語の教科書を買う。

小学2年下と中学1年。
イオンモール京都の大垣書店で購入。
棚には光村のしかなかくて、開けて読めないように包んであった。
四条のジュンク堂だと開いて読めるらしい。
僕の国語の教科書への印象は静謐だった。


必ずしもできた生徒ではなかったし、学校も授業も教科書もできれば遠ざけておきたかったように思う。でも国語の教科書の静謐は、どこかそういった目の前の現実を切り裂いてその向こうを見せてくれるような強さがあった。


今の教科書を見てみると、いろいろとごちゃごちゃと複雑な図版の「配慮」がひしめいているページもあるにはあるのだけれど、それでもこの静謐はそのままにある。字体と配置が作り出す強く読まれたい意識が静かににじみ出ている。しばらく眺めたりしていよう。