November 27, 2016

【375】「自給自足」でいう〈自〉とは何か。

「自給自足」という言葉を最近あまり聞かなくなった。
とあえて言ってしまうけれど、少し前までは割りとすんなり聞いていた。

僕自身なんとなく自給自足的な方向性を持って生活の行方を見ていたような頃があった。
と思い出せる。

でも僕は今、この言葉に対して「そうではない」感覚がある。

一般に自給自足という言葉は「食材を自分で作って自分で調理して食べる」というような〈範囲〉で使われることが多いと思う。

最初に結論めいたことを書いてしまうと、自給自足という概念はこの〈範囲〉についての認識の仕方の一つである。と思う。

以前わりとよく見かけたのだけれど、上記のような範囲で、つまり食材に関する範囲で自給自足を達成している、あるいは目指している人が、ユニクロのフリースを着ていた。

「ユニクロのフリース」が時代を感じさせるけれど、その時代感はたぶん正しくて、「(食の)自給自足」機運が盛り上がったのがユニクロのフリースがブレイクした時期に重なるのだと思う。

ユニクロのフリースは当時の日本企業が達成した国際経済における一つの先端で、化学繊維を用いて、中国の低労働賃金で、同一規格のものを大量生産し、日本という先進国経済で安価に大量に売りさばくというもので、その存在自体は当時の「(食の)自給自足」志向の対局に位置していると思う。そういったものからの離脱が「自給自足」志向であったはずだ。

「矛盾してるじゃないか」という指摘がしたいわけではない。

当時の「自給自足」という言葉が指し示すある感じがいったいどういうものであったのかを、今の時点で文字にしたいというのが僕の今の意識だから、別に矛盾しててもよくて、ようするに安くて温かい「ユニクロのフリース」はかなりの必然性を持っていたということだろう。

ユニクロのフリースが特に安価で高機能であるという以前に、衣類の自給自足はそもそも難易度が非常に高い。化学繊維は論外として、論外というのは、石油から繊維を「自分で」作る(自給する)のはそんなに難しくはなさそうだけど、これはこれで話がずれるし、「石油を自分で作る」のに至っては人類の時間すら超えることになる気がする。なので、例えば綿花や麻を栽培して糸にして布を織るということになるのだけれど、これは不可能ではないにしろ、畑や田んぼで食材を得ることに比べると難易度が跳ね上がる。稲わらを編んだものを着るなら比較的簡単かもしれない。あるいは裸で生活するとか。

いずれにせよ、「自給自足」の対象物として大半の人の意識から衣類は除去されていた。自給自足の〈範囲〉に含まれていなかったということだ。衣類だけではなく、結構たくさんの身の回りのものが除去されている。難しそうなところで例を挙げると、鍋釜、窓ガラス、筆記用具なんかも意外に難しい。

実は「食」に関しても、細かく見ると「自給」が困難なものがある。塩を沿岸部や岩塩が採れるところ以外で自給するのは、高難度だと思う。

自分では作れないけれど、何かと交換して入手することを「自給自足」に含めるためには、もう一段の設定が必要で、「自分で作った食材と直接的に物々交換する」という〈範囲〉が登場する。これに加えて、貨幣や労働を介在すると、かなり込み入った、ということはかなり恣意的で個人的な〈範囲〉設定が必要になる。いずれにせよ〈範囲〉をどこにとるかの問題である。ずっと広げていっちゃうと「自分の労働によって得た金銭的対価をコンビニ弁当と交換する」とかも自給自足に含まれてしまうことになる。

こうやって見てくると「自給自足」が対象としている「モノ」は意外に狭いことがわかる。でも別に狭くてもいいと僕は思う。狭いから「そうではない」と感じているわけではない。

僕は、自分で食べる分の野菜や米を自分で作っている人には敬意がある。単純にいいなぁと思う。衣類だって難度が高いだけで不可能ではないし、自分に必要な衣類その他を綿花や麻から自分で作っている人も実際にいると思う。そういう人に対して僕自身はただただすごいと思う。

だから「対象物やその入手経路に〈範囲〉があること」は、僕の「自給自足」という語に対する「そうではない」感じにはつながらない。

こんなふうに対象物の観点でいえば、「食材の」「米の」「夏野菜の」(その他どんな範囲でも)自給自足は、問題にならないどころか端的に羨ましい。「酒肴の」自給自足なんてとても素敵だと思う。

なので、僕が気になっているのは別の点なのだと思う。

つまりそれは「自給自足」でいうところの〈自〉の〈範囲〉はどうなっているのかで、僕はここに「自給自足」という言葉に対して持っている「そうではない」感じがある。

僕の家では、主にパートナーの澪がやっているんだけれど、庭でちょっとした野菜や果物を作っている。毎年うまくできるのは唐辛子やししとう、大豆もまずまず、今年からぶどうがなるようになったし、にんにくも意外にうまくできた。

家庭菜園レベルだけれど、この程度でも十分に気付くことがある。こういった農作物というものは、気候や天候、土壌の状態に大きく左右されるということだ。つまり、〈自分で〉作ってはいるけれど、〈自分で〉はどうにもならないことによって作物はできたりできなかったりするということだ。

僕たちの庭が作物が取れる程度の土壌として維持されているためには、まず、その場所を僕たちが自由に使うことができなくてはならない。そのためには土地の所有という社会的な権利が必要になる。この社会的な権利は僕たちだけでは、どうにもならない。社会がそのようになっている必要がある。

いつものように、こういうことは単なる屁理屈なのかもしれない。でも、どうしても僕には、〈自分で〉というところの〈範囲〉として、そういったことまでが入ってくる。

僕だけではない人間(社会)と、人間の範囲を超えた自然によって、食べ物を僕たちは作ることができている。この時、僕の〈自〉の〈範囲〉はとても小さい。

こういったことは、いわゆる「自給自足」的な生活をしている人であれば、嫌でも気がつくことで、そのことを受け入れるということも含めて、生活しているという実感を持っているのではないかと思う。

だから、たぶん、「自給自足」的生活をすればするほど、〈自〉給自足という言葉が使いにくくなっていくと思う。そしてきっと、自分で作ったものと他人が作ったものを交換することは、とてもありがたく思うだろうし、自分で作ったものがお金に替わるのも同じくありがたいことだろう。そのお金を使って自分で作るには難度が高いものを購入することにも抵抗はないだろう。そういうことを「自給自足」の〈範囲〉に含めるかどうかなんてどうでもいいと感じるだろう。

繰り返しになるけれど、いわゆる「自給自足」的な生活自体には憧れのようなものも含めて敬意がある。ただ、それを「自給自足」という言葉にしてしまうことには「そうではない」感じがある。

わかりやすさ、インパクトの有る言葉ではあるから、ここから何かが始まるきっかけにはなるだろうけれど、少し行けばむしろ柵(しがらみ)として働きかねない。

そんなことを考えた。


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