たんに曲を弾くのではなくて、参加者に楽譜が配られて、その楽譜を見ながら明日香さんの話と演奏をきく。
たとえばこんな感じ。
(録音したわけではないので、僕の記憶から)
楽譜にはドミソと書いてある。だからこう(ドミソと音を鳴らす)弾いてもいいんだけど、楽譜を読むと、まずドがあって、そしてそこから3度上がって、さらに3度上がってる。上がってるんです。だから単にドとミとソを鳴らせばいいんではなくて、上がっているということで何を言おうとしているか、そういうことを考える。
楽譜のはじめを見るとシャープが3つあって、イ長調。イ長調というのはこういう音。長調だから明るいんだけど、ただ明るいわけじゃない明るさ。この響きがこの曲の世界。
ここは、スラーが途中までかかっていて、その次スタッカートが一つ、そしてまたスラー。楽譜通りだったらこんなふう(といってその部分を演奏)に弾いてもいいけど、弾けない。弾けない。全部スラーでもいいのにそうなっていない。どうしてこんなふうになっているのか。だからここはこうなる(といって前回とは全く違うように聞こえる弾き方をする)。モーツァルトという人はほんとに繊細で、こういうのがとても多い。
(ロマン派の)ショパンは(古典の)モーツァルトに似た喋り方をする。
(メンデルスゾーンの無言歌で)ドが5つ続くんですけど、このドは全部違うド。だから同じようには弾けない。
最初のドミソの話は1回目の一番最初だったのだけど、「3度上がって、さらに3度上がってる」のところを明日香さんが身振りを交えながら全身で話すのを見て、僕は鳥肌が立った。
これは「危ない」ことを言ってる。この人は「危ない」。
と、たぶん体が反応したんだと思う。
事実、その後、曲を弾いてもらったときには、音が耳にだけ来るのではなくて、全身を撫で回されるような感じになった。細かく音が連なった曲はさざなみのように、ガンとした和音は鞭のように体に来る。ベートーヴェンの曲なんて、まるでお化け屋敷を歩くように、いつどこに何がひそんでいるかわからない。
弾いてくれた曲はすべて聞き慣れたはずの有名な曲なのに、次の瞬間いったい何が起こるのか予測ができない。拒むこともできない。
何がきこてくるのかわからないのではなくて、何が起こるのかわからない。
音楽を聴くということが変わる体験だった。
演奏家は楽譜を通してやってくるたくさんの要求に応えないといけない。だから大変。大変だけど、それが出来た時に生じる出来事はものすごい。
〈病み付き〉になる。
それは本を読むことにも通じていて、僕はどうやらこういうことが好きなんだ。