今日(11月13日)、よその国の憲法を数か国、読んでみて、どうやらそういうわけではなさそうだと認識が変わった。
たとえばソ連憲法(1977)や中華人民共和国憲法(1982)の前文(序言)は、極めて長文の生々しい革命的興奮が前面に出たもので、近代的な「非〈神話〉」を創作しようという強烈な意志を感じる。それが「国営放送のアナウンサーが読み上げる」ような声で聞こえてくる。
さらにアメリカ合衆国憲法(1788)。
[前文]われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の静穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。(岩波文庫『世界憲法集』)こちらは一見すんなりと読める。しかし、一切の外向性を排除した極めて内向きの内容は、僕が知るあの世界の警察たらんとする合衆国の姿とは大きなギャップがある。「われら合衆国の人民」が前提されている強い結束性にもかかわらず、合衆国人民がわざわざ「アメリカ合衆国のために」憲法を制定しなければならないということの脆弱さを背後に感じる。「われら」〈がある〉ということは自明だ。しかし「われら」〈たらんとする〉ことは、自明ではない。そういう強さと危うさを内包している。
ドイツ連邦共和国基本法(1949)の前文には、合衆国憲法のような「われら」が「われら」のために制定したという自己性は薄く、(西)ドイツ国民以外の人間によって書かれたという印象を持つ。「(基本法の決定に)協力することのできなかった、かのドイツ人」といった記述は同胞について言及している感じは薄く、「全ドイツ国民は、自由な自己決定で、ドイツの統一と自由とを完成するように要請されている。」という結語は、ドイツ国民の自戒としてよりも他者から突きつけられたものとして読める。
こういったことが特別な歴史的知識を持たずとも、憲法そのものを文字通りにただ読み、感じたとおりのことを露呈し合うことによって現れてくる。歴史的事実を紐解けば、この素読感はおそらく、正しく裏打ちされるだろう。
それぞれの国の憲法は、その憲法が書かれなければならなかったある状況において書かれている。それはすべて個別の独自性を持ち、独特の契機によって、その共同体自身の個別の姿を描かざるをえない。スタンダードな憲法は、スタンダードな文学作品が無いように、無い。
〈国〉というものも、その共同体自身の独自性によって描かれるもので、スタンダードな国の有り様があるわけではなく、その共同体自身がそれぞれに〈国〉を存在させる。
そういうことが実感できた。