December 19, 2016

【381】本をすすめる。『無為の共同体』

この本面白いよと人にすすめてもほとんど成果らしい成果を得られないことは本好きの孤高な楽しみでもあるのだけれど、それでも時々真に受けて買って読んじゃう人がいて、そういうときにこのちっぽけな場所にもう一人、人が増える感じにドキドキする。

とかって、これまではやってきたのだけど、ここに来て真面目に真剣にもう一度、この本面白いよと人にすすめることをやってみている。



共同体というとちょっと堅苦しいし、
「ともに」ということなんていうとちょっと気取って聞こえるのだけれど、
現代において人が直面することのほとんどは要するにここに集約されるような、
そういうことを書いている。
と思う。

人とともにいるということは現代においてどういうことか。

前近代において、人はまず神とともにあった。
共同体は神話を書くことで共同体たり得た。
神話は共同体に書かれることで神たり得た。
それが今はどうなっているのか。

根拠も目的も共有せず、
ただ共同体であることで共同体であるような「無為」の共同体はあり得るのか。
あるとしたらその共同体はどうやって共同体なのか。

とか、面白いと思いませんか?

December 18, 2016

【催し】1月15日 新年の句会

最近知り合ったというか話をするようになった方が以前よく句会をやっていたとのこと、それではとやってみることにしました。

とは言っても僕は句会などやったことがありません。

僕が理解した句会のやり方は、

最初にちょっとルールを決める。
どこまで俳句の決め事を守るかとか。

それから句をそれぞれで作る。
歳時記で季語を調べたりしながら。

できあがった句を、誰が詠んだのかわからない状態で全員に配る。

全員がそれぞれの句について評価をする。

それを集めてどれが一番だったかを決めたり、
それぞれの句についてあれこれ言ったりする。

こんな感じです。

僕自身は俳句を詠めるようになるという楽しみと同時に、
俳句を読めるようになるかもという楽しみがあります。

有名な句を読むときにこれまでとは違った感じで読めるかもしれない。
それはとても楽しみなこと。

まずは一回やってみようということで、
面白かったら定期的にやるかもしれません。

「新年の句会」
日 時:2017年1月15日 13時から17時ごろ
場 所:まるネコ堂
参加費:お昼ごはん込で500円。
持ち物:歳時記があればいいかも。
申し込み:大谷までメッセージかメール(marunekodo@gmail.com)で。

December 13, 2016

【380】山根澪の「絵を描く会」によせて。

山根澪が絵を描く会をはじめます。
満を持して。
なのだと思います。

澪の案内文にある、

絵を見ることで、
もともと目の前に存在しているものなのに、
絵に描かれることによって初めてそれが現実に見えてくるようなことがあります。
ときには、描いた人の広大な世界がその絵から出てくるようなこともあります。


という「ようなこと」は、どういうことなのか。

たぶん、絵を描くという行為は、
網膜に写った映像や心の中の情景のアウトプットではないのだと思います。
もう少し違う様相を含んでいると思います。

それは、その人にとっての世界というものを捉えるやりかたそのものと、
「その世界」にその人が存在する有り様そのものを含んでいると思います。

その人が、
その人にとって、
世界というものを認識するやりかたは、
意外なほど人によって違います。

「もともと目の前に存在している」はずのものを、
描いた人は、全く異なるやりかたで見ていた。
だから、それが描かれ、その絵を見たときに
「初めてそれが現実に見えてくる」。

絵を見ることは、
人というものが持っている、
世界とその人を含んだ存在というものの有り様を、
「違いごと」見ることであって、
だから描かれた絵に「描いた人の広大な世界」が見えたりするのだと思います。


山根澪のブログ

【379】12月8日の日本国憲法をバカ丁寧に読む会の第3回を終えて。

7回シリーズで行っている「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」。
第2回の第一章天皇、第二章戦争の放棄の感想は、こちら
第3回は、第三章国民の権利及び義務。


「は、これを」文の効果


第三章でどうしても目につくのが「〜は、これを〜」という文体。すでに二章から使われているが、三章で頻出する。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
この「は、これを」文は、日常の日本語としてはあまり見かけないが、意味としては十分に通じるやや特殊な文体として微妙な位置にある。ちょっと調べると漢文が元らしいが、日本国憲法の場合は、英文の構文を直訳したものとして残ったものかもしれない。

上記の第十九条の場合は、「これ」は「思想及び良心の自由」を示すから、条文としては「これを」を削除しても同じ意味となる。はずなのだけれど、詳細に見ると微妙な効果があることがわかる。

「これ」を削除して、前後の助詞のどちらかを残してみる。
A 思想及び良心の自由は侵してはならない。 
B 思想及び良心の自由を侵してはならない。
あくまでもニュアンスのレベルではあるけれど、Aの場合は、「思想及び良心の自由」以外のものについては除外しているという、助詞「は」が持つ他との区別を意味する用法が強く現れる。「他は侵してもいいの?」と。

Bの場合は、自由を侵す主体について意識が向く。「誰が侵してはならないの?」あるいは「誰が侵すの?」と。

これに比べ、原文は、
C 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
となっていることで、助詞「は」「を」をどちらも含む文体となり、A、Bそれぞれで感じられた「書かれていないことへの意識の照射」を減衰させる効果があるように思う。逆に言えば「書かれていることへの意識の囲い込み効果」とでもいうものが。

「何人も」の痕跡


もう一点、第三章で頻出するちょっと変わった日本語が「何人も」である。
第十八章 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。
日本語の意味としては、第十三条などで使われている「すべて国民は」としても通じそうである。ニュアンスとして「すべて国民」は統合的な像を、「何人も」は多様的な像を思い浮かべる。「何人も」は「日本国民」以外にまで及ぶ感じもある。

あるいは、もう少し機械的な理由で、もともと英文で作成されたものを和訳したときの英構文が残っているのかもしれない。なぜなら「何人も」は僅かな例外を除いて、「〜ない」という否定文で使われている。

僅かな例外は、第三章においては、第十七条、第二十二条第一項、第四十条。

ということは、これらの例外は、和訳された後に「日本語で」修正された痕跡なのかもしれない。

日本語としての憲法


高圧な状況下で、文言を確定する作業をしようとすると、「は、これを」文や「何人も」などといった微妙な日本語としてのニュアンスが無視できない場合がある。「同じ意味なんだけれど、どうしても感じが合わない」という感覚からは、日本語を使っている以上逃れることができない。

だからこういった「なくてもいい」あるいは「統一しようと思えば統一できる」ような特徴的な言い回しは、文言を詳細に検討していく中で、「はずしたり統一したりするとどうも変な感じがする」という理由で、残ってしまったり、あえて残したりしたものなのかもしれない。

そういう意味で、由来としては日本語以外の文法構文に従った機械的な言い回しであったとしても、それを「日本語として」検討することは、日本語独特の感性に従わうことになる。

日本国憲法を書いた人たちもその感性のもとにあったはずで、現行憲法の微妙な統一感の無さは、(時間切れで統一し損なったという理由もありそうだけれど)ギリギリのニュアンスレベルでの検討をした結果ではないかとも思う。

「平穏に請願する権利」とは

もう一つ面白かったのが、参加者の一人が指摘したのだけれど、第十六条に、
平穏に請願する権利を有し、
とわざわざ「平穏に」と書いてある。

第十六条全文は、
損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。 
「一揆とかしなくていいですよー」「傘連判状とか血判状とかそういうのもいらないですよー」「クーデターとか革命とか物騒なことしなくてもいいですよー」ということなんだろうか。ちょっとおもしろい。


December 8, 2016

【催し】読む・書く・残す探求ゼミ第3期

第3期開催が決定しました。

2月26日、3月25日の回の文章持ち込み者確定済みです。

===
【バカ丁寧に読む ことでしか見えない世界】

読むにしろ、書くにしろ、話すにしろ、聞くにしろ、
ぼくたちは、言葉そのものをどう捉えるか、
というじぶんの制約から逃れられません。

どれほど感情や気持ちを大切にしようとしても、
言葉を意思疎通や情報伝達のための道具、として捉えていれば、
正しいとか間違っているとか、価値が高いとか低いとか、
世界はそのように見えます。

逆に、心や共感にまったく目を向けていなくても、
言葉が話されるたび、書かれるたび、
表現している人の途方もなく広くて豊かな世界を
形にして指し示しているのだ、という前提にたてば
正しさや間違いもない、ただ一つ一つユニークな世界が
混沌と、あるいは整然と、矛盾を含んだ形で
一つ一つ切り分けられないような形で、
ただただそこにある、ということがわかります。

そして、そうやってみたときに、
結果としてぼくたちが「心」とか「感情」とか「気持ち」
と呼んでいるものが、ひっそりと咲いている花や宝物のように
その世界の中で生き生きと佇んでいることまでが
視野に入っていることに気づきます。
 

それを見るためにどうするか、といえば、
言葉を一つ一つ丁寧に見るだけ。

ただし、”どのくらい丁寧か”、が重要で
A4用紙1ページの文章を3時間も4時間もかけて読む、
そのくらい丁寧に見ていきます。

うー、楽しみです。

小林健司


===
▶日 程:
1月28日(土)
2月26日(日) ★文章持ち込み者確定済み
3月25日(土) ★文章持ち込み者確定済み
5月28日(日)
6月17日(土)
7月30日(日)
※各日程とも内容は同じです。
※4月は合宿企画を行います。
「読む・書く・残す」探求合宿 inスペースひとのわ(比良)


▶時 間:11時から17時ころ。(時間変更して長くなりました。午前中からです。)
     11時頃から12時半頃  主催挨拶、講師の話
     12時半頃から13時半頃 お昼休憩
      (昼食は用意しています。投げ銭制です。)
     13時半頃から17時頃  バカ丁寧に読む時間

▶内 容: 参加者がじぶんで書いた文章を持ち寄って
     じっくりと読み込んでいきます。
     文章持ち込みは各回1人です。
     持ち込み希望者は早めにお申し出ください。

▶場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
▶注 意:猫がいます。アレルギーの方はご注意下さい

▶参加費:各回8,000円、またはそれに準ずるもの。
▶講 師:大谷隆
▶主 催:小林健司
▶定 員:6人程度

▶懇親会:
各回終了後、懇親食事会をします(食事代500円。お酒は別途投げ銭で)。
お時間のある方はどうぞ。

▶お申込:marunekodo@gmail.com
 ・お名前
 ・電話番号
 ・懇親会 参加・不参加(予定でかまいません)
 ・その他(何かあればご自由に)

〈講師の大谷隆のプロフィール〉
1971年生まれ。宇治市出身。
「まるネコ堂」代表。環境報告書・CSRレポート制作会社編集部門、市民活動総合支援センター(社福)大阪ボランティア協会・出版部を経て2010年5月独立。フリーランスの編集者として、読む、話す、聞く、書く、それぞれにじっくり向き合う仕事をおこなう。
・言葉の場所「まるネコ堂」 http://marunekodoblog.blogspot.jp/
・雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/

<小林健司のプロフィール>
愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。ソーシャルビジネスの創業支援をする NPOでの勤務を経て独立。目的のない生命体的集団フェンスワークスに2年在籍し、現在、人とことばの研究室代表。
・人とことばの研究室 http://hitotookane.blogspot.jp/
・雑誌「言語」 http://gengoweb.jimdo.com/

December 3, 2016

【378】猟師さんと会った。

今日、猟師さんと会った。話を聞いた。これが面白かった。

聞いたままではなくて僕の理解だけれど、
縄文時代からずっと日本では猟を行ってきて、その肉を食べていた。明治以降に家畜の牛豚鶏を食べるようになったけれど、それまでは狩猟の肉を食べていた。 
猟師は奥山という深い自然の世界と社会という人の世界の間を行き来する仕事。
猟師は奥山に入るから山で起こっている異変に早く気がつく。鹿が増えすぎているとか、がけ崩れが起きそうな場所とか、町の人ではわからないようなこともわかる。
猟というのは神聖な行為である。 
東山いきいき市民活動センターのツキイチカフェというイベントで兵田大和さんという猟師さんは、そんな話をしてくれた。猟というものの全体像を捉えた丁寧な話を聞いているうちに、これはまさしく網野善彦の言う狩猟民、漂泊民、つまり「無縁」の話だと気がついた。

兵田さんは、現代的な言葉遣いと現代的な方法で、つまりパワーポイントのアニメーションや写真を駆使して、この話をしてくれたわけだけど、「以前の山とはまるっきり変わってしまった。今、日本の山の多くはこんな状況になってしまっている」という話自体は、もしも1000年前だったら、それこそ普段はめったに里に姿を見せない森の人が警告を発しにやってきた一大事で、ここから『もののけ姫』のような物語が始まってしまうような出来事なのだという気分になってくる。

僕が兵田さんの話を聞こうと思った動機は、鞣(なめ)しをやってみたくて、そのための鹿皮を手に入れる方法や鞣し方を教えてもらおうという「下心」からだったのだけど、思わぬ〈世界〉に触れることができて密かに興奮していた。

「中世においてピークを迎えた無縁の原理と場は現代ではもう途絶えてなくなってしまった」というのが、網野善彦を読み始めたときの僕の「知識」だったけれど、今では全くそうは思わない。

無縁の原理と場は、今でも当たり前に存在している。しかもそれは、時代性を引きずった遺物として残っているわけではなく、現代的な姿となって生きている。僕たちはそんな原理と場を今でも生き生きと生きることができる。

「獣害」と言われる現状はかなり深刻ではあるのだと知ったのだけれど、兵田さんに会えて僕は逆にそんなことを一人で確かめられた気になって、嬉しくなった。

December 1, 2016

【377】11月24日の日本国憲法をバカ丁寧に読む会の第2回を終えて。

7回シリーズで行っている「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」。
第1回の前文に続き、第2回では第一章天皇、第二章戦争の放棄を読む。

まずどうしても気になるのが「天皇」というもの。

前文で、当時の高圧な環境下でどうにかひねり出したものは、恒久の平和を念願し、普遍的な法則にもとづいて、「われら」「日本国民」が崇高な理想と目的を達成することを誓って終わるもの。それにもかかわらず、唐突に天皇が現れる。

天皇は象徴である。

ということが念を押すように書かれているが、そもそも天皇とは何かの答えにはなっていない。もしもこの第一条が「日本国民の象徴は天皇である。」となっていれば、前文の「日本国民」のもつ主体性の強さとニュアンスが合ったのかもしれない。少なくとも、日本国民を前提とし、天皇が存在するという〈順序〉が揃う。

しかし、そうなっていない。このことは〈天皇〉というものの本質に関わっている。

そもそも〈天皇〉という言葉は日本人以外にとっては皇帝や王を指す一般名詞となるだろう。しかし、日本人にとって〈天皇〉は、日本人から見て諸外国の王様と同じではない。〈王〉の支配の中にある人にとって、その〈王〉は一般的な権力者として頂点に立つものというような意味での王ではない。絶対的な立場というのは、それが何かということを問い得ないものだ。つまり「天皇とは何か」という問自体が生まれない。生まれたとしても答えることができない。天皇はすでに最初からそこにあるということ、日本国民よりも「前に」。その天皇を日本国民と日本国は「後から」象徴にするということが第一条の前半に書かれていると読める。

この前提としての〈天皇〉が、あの悩みに悩んだ苦悩の前文の直後に、まさに降臨するかのようになんの前触れもなく第一条に現出する。前文とは乖離のレベルを超えて、もはや相反している。前文は近代を象徴していて、第一条(第一章)は前近代を象徴しているとも言える。

その第一章の次が「戦争の放棄」とくる。
再び、近代の苦悩、〈天皇〉の世界という日本国のレベルを超えた〈国際〉平和を希求することになる。

〈憲法〉というものは、近代の苦悩が書かれたテクストである。その〈憲法〉に強い齟齬を持ちつつ〈天皇〉がねじ込まれている。テクスト自体の持つ強い抵抗によって〈象徴〉にまで形を変えた前近代であり、これは「日本という場所」全体に渡って見ることのできる、近代とそこに埋め込まれている変形した前近代にも通じるのではないだろうか。

自民党改正案で、国旗と国歌を第一章に内包しているのは、国旗と国家をあくまでも前近代の天皇を前提とする〈袋状〉のものの中に包んでしまおうという意図があるのだろう。

それと、第九条に関して、一点、僕は長く思い違いをしていた箇所があった。

第九条は「日本国が」戦争を放棄しているのではなく「日本国民が」放棄している。ここまでにおいてこの憲法は頑固に「日本国民」と「日本国」を書き分けている。どれほど頑固かといえば、第一条を「(天皇は、)日本国及び日本国民統合の象徴であって」と書くのではなく(自民党改正案ではそのように修正されているが)、「日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって」と書き分けられている程度に。

つまり、第九条第二項は「日本国が戦力を保持しない」のではなく「日本国民が戦力を保持しない」と読める。この違いは体感として大きい。軍というものは国が持つものではなく、国民が持つものなのだという意識を感じる。


■関連する記事
【360】天皇の〈眼差し〉。
 「終戦記念日の翌日に玉音放送をバカ丁寧に聞き読む会」を終えて書いたものです。

【373】よその国の憲法。
 「よその〈国〉の憲法を読む朝」を終えて書いたものです。