7回シリーズで行っている「日本国憲法をバカ丁寧に読む会」。
第1回の前文に続き、第2回では第一章天皇、第二章戦争の放棄を読む。
まずどうしても気になるのが「天皇」というもの。
前文で、当時の高圧な環境下でどうにかひねり出したものは、恒久の平和を念願し、普遍的な法則にもとづいて、「われら」「日本国民」が崇高な理想と目的を達成することを誓って終わるもの。それにもかかわらず、唐突に天皇が現れる。
天皇は象徴である。
ということが念を押すように書かれているが、そもそも天皇とは何かの答えにはなっていない。もしもこの第一条が「日本国民の象徴は天皇である。」となっていれば、前文の「日本国民」のもつ主体性の強さとニュアンスが合ったのかもしれない。少なくとも、日本国民を前提とし、天皇が存在するという〈順序〉が揃う。
しかし、そうなっていない。このことは〈天皇〉というものの本質に関わっている。
そもそも〈天皇〉という言葉は日本人以外にとっては皇帝や王を指す一般名詞となるだろう。しかし、日本人にとって〈天皇〉は、日本人から見て諸外国の王様と同じではない。〈王〉の支配の中にある人にとって、その〈王〉は一般的な権力者として頂点に立つものというような意味での王ではない。絶対的な立場というのは、それが何かということを問い得ないものだ。つまり「天皇とは何か」という問自体が生まれない。生まれたとしても答えることができない。天皇はすでに最初からそこにあるということ、日本国民よりも「前に」。その天皇を日本国民と日本国は「後から」象徴にするということが第一条の前半に書かれていると読める。
この前提としての〈天皇〉が、あの悩みに悩んだ苦悩の前文の直後に、まさに降臨するかのようになんの前触れもなく第一条に現出する。前文とは乖離のレベルを超えて、もはや相反している。前文は近代を象徴していて、第一条(第一章)は前近代を象徴しているとも言える。
その第一章の次が「戦争の放棄」とくる。
再び、近代の苦悩、〈天皇〉の世界という日本国のレベルを超えた〈国際〉平和を希求することになる。
〈憲法〉というものは、近代の苦悩が書かれたテクストである。その〈憲法〉に強い齟齬を持ちつつ〈天皇〉がねじ込まれている。テクスト自体の持つ強い抵抗によって〈象徴〉にまで形を変えた前近代であり、これは「日本という場所」全体に渡って見ることのできる、近代とそこに埋め込まれている変形した前近代にも通じるのではないだろうか。
自民党改正案で、国旗と国歌を第一章に内包しているのは、国旗と国家をあくまでも前近代の天皇を前提とする〈袋状〉のものの中に包んでしまおうという意図があるのだろう。
それと、第九条に関して、一点、僕は長く思い違いをしていた箇所があった。
第九条は「日本国が」戦争を放棄しているのではなく「日本国民が」放棄している。ここまでにおいてこの憲法は頑固に「日本国民」と「日本国」を書き分けている。どれほど頑固かといえば、第一条を「(天皇は、)日本国及び日本国民統合の象徴であって」と書くのではなく(自民党改正案ではそのように修正されているが)、「日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴であって」と書き分けられている程度に。
つまり、第九条第二項は「日本国が戦力を保持しない」のではなく「日本国民が戦力を保持しない」と読める。この違いは体感として大きい。軍というものは国が持つものではなく、国民が持つものなのだという意識を感じる。
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