第2回の第一章天皇、第二章戦争の放棄の感想は、こちら。
第3回は、第三章国民の権利及び義務。
「は、これを」文の効果
第三章でどうしても目につくのが「〜は、これを〜」という文体。すでに二章から使われているが、三章で頻出する。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。この「は、これを」文は、日常の日本語としてはあまり見かけないが、意味としては十分に通じるやや特殊な文体として微妙な位置にある。ちょっと調べると漢文が元らしいが、日本国憲法の場合は、英文の構文を直訳したものとして残ったものかもしれない。
上記の第十九条の場合は、「これ」は「思想及び良心の自由」を示すから、条文としては「これを」を削除しても同じ意味となる。はずなのだけれど、詳細に見ると微妙な効果があることがわかる。
「これ」を削除して、前後の助詞のどちらかを残してみる。
A 思想及び良心の自由は侵してはならない。
B 思想及び良心の自由を侵してはならない。あくまでもニュアンスのレベルではあるけれど、Aの場合は、「思想及び良心の自由」以外のものについては除外しているという、助詞「は」が持つ他との区別を意味する用法が強く現れる。「他は侵してもいいの?」と。
Bの場合は、自由を侵す主体について意識が向く。「誰が侵してはならないの?」あるいは「誰が侵すの?」と。
これに比べ、原文は、
C 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。となっていることで、助詞「は」「を」をどちらも含む文体となり、A、Bそれぞれで感じられた「書かれていないことへの意識の照射」を減衰させる効果があるように思う。逆に言えば「書かれていることへの意識の囲い込み効果」とでもいうものが。
「何人も」の痕跡
もう一点、第三章で頻出するちょっと変わった日本語が「何人も」である。
第十八章 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。日本語の意味としては、第十三条などで使われている「すべて国民は」としても通じそうである。ニュアンスとして「すべて国民」は統合的な像を、「何人も」は多様的な像を思い浮かべる。「何人も」は「日本国民」以外にまで及ぶ感じもある。
あるいは、もう少し機械的な理由で、もともと英文で作成されたものを和訳したときの英構文が残っているのかもしれない。なぜなら「何人も」は僅かな例外を除いて、「〜ない」という否定文で使われている。
僅かな例外は、第三章においては、第十七条、第二十二条第一項、第四十条。
ということは、これらの例外は、和訳された後に「日本語で」修正された痕跡なのかもしれない。
日本語としての憲法
高圧な状況下で、文言を確定する作業をしようとすると、「は、これを」文や「何人も」などといった微妙な日本語としてのニュアンスが無視できない場合がある。「同じ意味なんだけれど、どうしても感じが合わない」という感覚からは、日本語を使っている以上逃れることができない。
だからこういった「なくてもいい」あるいは「統一しようと思えば統一できる」ような特徴的な言い回しは、文言を詳細に検討していく中で、「はずしたり統一したりするとどうも変な感じがする」という理由で、残ってしまったり、あえて残したりしたものなのかもしれない。
そういう意味で、由来としては日本語以外の文法構文に従った機械的な言い回しであったとしても、それを「日本語として」検討することは、日本語独特の感性に従わうことになる。
日本国憲法を書いた人たちもその感性のもとにあったはずで、現行憲法の微妙な統一感の無さは、(時間切れで統一し損なったという理由もありそうだけれど)ギリギリのニュアンスレベルでの検討をした結果ではないかとも思う。
「平穏に請願する権利」とは
もう一つ面白かったのが、参加者の一人が指摘したのだけれど、第十六条に、平穏に請願する権利を有し、とわざわざ「平穏に」と書いてある。
第十六条全文は、
損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。「一揆とかしなくていいですよー」「傘連判状とか血判状とかそういうのもいらないですよー」「クーデターとか革命とか物騒なことしなくてもいいですよー」ということなんだろうか。ちょっとおもしろい。