聞いたままではなくて僕の理解だけれど、
縄文時代からずっと日本では猟を行ってきて、その肉を食べていた。明治以降に家畜の牛豚鶏を食べるようになったけれど、それまでは狩猟の肉を食べていた。
猟師は奥山という深い自然の世界と社会という人の世界の間を行き来する仕事。
猟師は奥山に入るから山で起こっている異変に早く気がつく。鹿が増えすぎているとか、がけ崩れが起きそうな場所とか、町の人ではわからないようなこともわかる。
猟というのは神聖な行為である。
東山いきいき市民活動センターのツキイチカフェというイベントで兵田大和さんという猟師さんは、そんな話をしてくれた。猟というものの全体像を捉えた丁寧な話を聞いているうちに、これはまさしく網野善彦の言う狩猟民、漂泊民、つまり「無縁」の話だと気がついた。
兵田さんは、現代的な言葉遣いと現代的な方法で、つまりパワーポイントのアニメーションや写真を駆使して、この話をしてくれたわけだけど、「以前の山とはまるっきり変わってしまった。今、日本の山の多くはこんな状況になってしまっている」という話自体は、もしも1000年前だったら、それこそ普段はめったに里に姿を見せない森の人が警告を発しにやってきた一大事で、ここから『もののけ姫』のような物語が始まってしまうような出来事なのだという気分になってくる。
僕が兵田さんの話を聞こうと思った動機は、鞣(なめ)しをやってみたくて、そのための鹿皮を手に入れる方法や鞣し方を教えてもらおうという「下心」からだったのだけど、思わぬ〈世界〉に触れることができて密かに興奮していた。
「中世においてピークを迎えた無縁の原理と場は現代ではもう途絶えてなくなってしまった」というのが、網野善彦を読み始めたときの僕の「知識」だったけれど、今では全くそうは思わない。
無縁の原理と場は、今でも当たり前に存在している。しかもそれは、時代性を引きずった遺物として残っているわけではなく、現代的な姿となって生きている。僕たちはそんな原理と場を今でも生き生きと生きることができる。
「獣害」と言われる現状はかなり深刻ではあるのだと知ったのだけれど、兵田さんに会えて僕は逆にそんなことを一人で確かめられた気になって、嬉しくなった。