April 11, 2018

【399】いまさら読む大塚英志『物語消費論』

文庫も出ている。実は書き飛ばしエッセイ集。

表題の「論」についておさえておきたければ冒頭の書き下ろしを図書館でさらっと読むといい。それぐらいの価値はある。今は教授だけど執筆当時は漫画などのフリーランス編集者だった著者の「これ売れる、これ売れない」という嗅覚直観が、不気味なほどに当たってしまった(ように読める)本。

といったぐらいで、あちこちで語られつくされていると思うので、これ以上、特に書くことはない。以下、個人的なことを書きます。

『ぼのぼの』『アキラ』『銀河英雄伝説』『ノーライフキング』『ホットロード』あたりは(自分で買って読みました)ともかくとしても、『BASTARD!!』『ファイブスターストーリーズ』『アーシアン』といった固有名詞に(自分で買ったり友達に借りたりして読みました )、変な汗が出る団塊ジュニアである私は、いったいあの頃何を見ていたのか。

編集者である(あった?)大塚英志が編集者として活躍した当時、編集者というものは絶大な権力者だった。興味と直観でメディアという原野を駆けずり回り膨大な量の「トンボ」を収集観察、願わくば新種の「トンボ」の発掘に執念を燃やす。それをオイシイオイシイと次から次へと口に詰め込んだ僕たちは、彼らにとってオイシイオイシイ消費者だった。

当時十代だった僕は、来る日も来る日も小説を読み、漫画を読み、ゲームに耽った。ドラクエなどの発売日はゲーム雑誌で何ヶ月も前からチェックし続けた。しれっと延期されるたびにため息をついた。競うように新刊も買った。新刊コーナーをやっつけた後は、店中の棚を端から端まで舐めるようにチェックした。舐め終わったら次の店に向かった。毎日学校帰りに寄っていた店の本棚は粗方記憶した。あったところに戻さない客のせいで乱れてしまった棚を本来あるべき順に並べなおした。むろんコーナー違いは厳しく正した。好きな作家の作品を勝手に平積み台に陳列して特集した。

そういった甘く切ない僕の大切な夢中の時間が、である。
思いつきの設定や粗筋(だいたいこういうアイデアは編集者が出すものと相場が決まっている)(同書「物語製作機械」)
薄々知ってはいたが、その通りに軽薄な起点から作家を作動させ搾り取った成れの果てを僕は頬張っていたわけだ。ようするに、この本全体がそういう裏話、暴露話なのだが、まぁそれはいい。

それはいいのだけれど、作品や作家を崇め愛していたはずの僕はやがて、作品作家の向う側にある〈大きなマーケティングストーリー〉にまでアクセスしてしまっていた。多感な十代の僕がその深部で気づかぬうちに出会っていたのは、実は脂ぎった編集者だったのだ。だからこそ僕は編集者になってしまったのかもしれない。ゾッとする。

もう一つ。日本という国がどうしてこんなに漫画マンガしているのか。
団塊世代が『少年マガジン』を二五〇万部雑誌に押し上げ、その子供たちが『少年ジャンプ』の四五〇万部を支えている。(略)この世代(団塊世代と団塊ジュニア)としての過剰な共通意識こそが、マーケティングの立場からいえば、「ひっかけやすい」 (同書「“団塊の世代”は今なぜトレンドになっているのか」)
この幾分荒っぽい分析から著者が糾弾するのは(彼自身がその甘い汁を啜っていたことはむろん自覚し自嘲しつつだろうが)、団塊世代と団塊ジュニアが日本を漫画マンガさせた元凶だということだ。またしても親子二世代の共同作業。そうかもしれない。そうだと思う。そうだとして、こんなに背筋が冷却されるのはなぜだろう。

なにしろどうにも言い訳が効かないのだ。高校生の僕がミヒャエル・エンデ『モモ』を買い求めた理由は、文学的興味などではさらさらない。毎週聴いていたオールナイトニッポンで、大好きな小泉今日子が薦めたからである。翌日、本屋に走った。

僕が二十代でテレビを観なくなったのは、僕の中で〈消費〉が飽和したからにすぎない。マーケターの掌で踊り疲れてしまっただけだ。僕がゾッとするほど無責任だということだ。

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独断のいまさら読むとしたらおすすめ度:★★
「冒頭二つの章は目を通してもいい。懐かしがりたい人は全編読もう」

★★★★読みなさい
★★★ 読みましょう
★★  読みたかったら
★   読まなくても


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