April 22, 2018

【402】いまさら読む東浩紀『一般意志2.0』

「エッセイ」である。著者自身が冒頭、いきなりそう宣言している。
 あらゆる夢と同じように、筆者の夢もまた、断片的で矛盾だらけで、欠陥が多く混乱に満ちている。だから筆者はこの原稿を、論文としてではなく、エッセイとして記すことを選んだ。
 その選択はもしかしたら、この二〇年のあいだ人文科学で、というよりも思想や批評の世界で主流だった、注釈と参考文献ばかりが多く過度に防衛的な論文スタイルに慣れた読者には、とてもいいかげんで頼りないものに映るかもしれない。[第一章]
論文ではなくエッセイにした。という著者の認識がじわじわとあとになって響いてくるのだけど、まず順をおっていこう。

本書で展開されるのはどういった「夢」なのか。全部で十五章からなるのだけれど、その後半、第10章で丁寧に「本書の中核的な主張はほぼ語り終えた。(略)ここまでの議論をあらためて確認し整理してみることにしよう」と、わかり易く丁寧に、著者自身がまとめてくれている。お陰で引用がし易い。
まずは本書は、ルソーについて新しい解釈を提出した。近代民主主義の基礎概念、ルソーの「一般意志」は、一般に考えられているのとは異なり、討議を介した意識的な合意ではなく、むしろ情念溢れる集合体的な無意識を意味している。これが本書の第一の柱だ。
このルソーの新しい解釈は面白く読めた。ルソーを読んで確かめたくなる。
筆者の考えでは、ルソーの理想は、意識ではなく無意識に、「人の秩序」ではなく「モノの秩序」に導かれる社会にあった。実際にそのように解釈してはじめて、彼が、『社会契約論』の著者であるのと同時に、ロマン主義を準備した情熱的な文学者であり、恋愛小説や告白小説の作者でもあったという事実が整合的に理解できるのである。(略)ルソーはそこで、意志として意識されない意志、契約として意識されない契約についてこそ語っていたのだ。
一見すると矛盾するルソーの二面性についてはデリダも『グラマトロジーについて』でねちっこく読んでいるし、書いている。このあたりも興味深い。
 このルソー読解からは、必然的に、近代の民主主義社会は、熟議民主主義の理論家たちが主張するのとは異なり、じつは「大衆の無意識に従うこと」を目的として生まれたという結論が導かれる。
 大衆の無意識に従うこと。それは魅力的だがまたじつに危険な発想でもある。実際にルソーの主張は、しばしば全体主義の正当化に利用されてきた。

例えばナチス。実は、フランス革命もルソーが影響している。なるほどなるほど。
けれども、二一世紀のわたしたちはその罠を回避することができる。というのも、わたしたちは無意識を「可視化」できる時代に生きているからだ。(略)
さまざまなソーシャルメディアの動きを見れば明らかなように、現代社会は「総記録社会」へと向かいつつある。それは監視社会とは異なる。(略)いまや信じられないほどの多くの人々が、自発的に、しかもじつに克明に、自らの行動や思考の履歴をネットワークのうえに残し始めている。筆者はその状況を「無意識の可視化」と呼ぶ。
まぁ、そう言われるとそれはそうなんだけど。このあたりから、だんだんと興味が薄れていく。
そして筆者は、これからの政府は、その可視化された無意識をできるだけ統治に活かすべきだと考える。(略)それらのデータは個人の単位では不完全で断片的な履歴にすぎなくても、何万、何十万と集まればまったく異なった性格をもち始める。
ちなみにプライバシーの問題は配慮した上でと著者は断っている。また「ソーシャルメディアやスマートフォンを使いこなしているのは一部の人々」にすぎないが、それを言ったら選挙で問われる「民意」も一部じゃないかと。確かに。

たぶんこの辺が分かれ道だったのだと思う。ここはもう少し踏みとどまって、思想的哲学的な領域で戦っても良かったのではないか。あるいはこのへんで終わっておけばよかったのかもしれない。

で、結局「夢」はどうなるのかというと、従来的な熟議とデータベース(可視化された大衆の無意識)が補い合う新しい制度を提案する。
言ってみればーーより進化したサービスを前提としているのでいろいろ細部は違うのだがーー、政府内のすべての会議を「ニコニコ生放送」で公開しろ、と呼びかけているようなものである。
「うぉー!そんな斬新な手があったかぁ!」となれば本書は成功したということになるし、その先に「じゃぁ、それ本気でやっちゃうぜ」みたいな人が現れて、現実化すれば、本書は大成功となる。のだけど、少なくとも僕は、著者の準備してくれたフックにひっかからず、乖離した。

本書は2009年から2011年にかけて連載されたものを2011年に書籍にまとめたもので、それを2018年にいまさらながら読んでいる。そういうタイムラグがある。あるのだけど、それ以上に、「これって本気なのかな」と思ってしまって、僕の関心がしぼんでいった。後半部分、自分は専門家じゃないのでやらないけど、誰かやったらいいのに、というふうに投げ出されているからかもしれない。

もう一度もとに戻る。本書はエッセイとして書かれている。「断片的で矛盾だらけで、欠陥が多く混乱に満ちている」からという理由で、論文ではなくエッセイを選んでいる。しかし、エッセイにはエッセイの勝負どころがある。断片的で矛盾だらけで欠陥が多く混乱に満ちた夢を描くことについては問われなくても、別の何かが求められる。

端的に言えばコクと香りがないのだ。一歩間違えばアクや嫌味になるようなギリギリのコクと香りがエッセイの醍醐味ではないだろうか。このコクと香りによって、読者は、矛盾や欠陥や混乱を美味しく飲み下すことができる。

著者自身が「論」の半ばで、自説を懇切丁寧に短くまとめてくれていること自体にそれが明瞭に現れている。長時間かけて作ったスープを活性炭フィルターで濾すようなことができてしまうのは、もともと著者にスープというものへの意識がないということだと思う。それは著者の「聡明さ」に由来すると思われるが、だとしたらエッセイという選択は正しかったのだろうか。著者の本域はここなのだろうか。

繰り返しになるけれど、著者のルソーの読解は面白く読めた(どこまで同意できるかはともかく)。僕にはむしろソッチのほうが新しい。こういう感じでもう少し進んでくれたらとどうしても思ってしまう。それだとこんなに売れなかった可能性は高い(どころかそもそも企画が通らなかったかもしれない)。目新しい情報技術・サービスの紹介を交えることで読者を増やせるかもという、(著者ではなく)出版社の下心があったのかもしれない。結果的に本書の「時間への耐性」を弱めてしまったように思われる。

「この二〇年のあいだ人文科学で、というよりも思想や批評の世界で主流だった、注釈と参考文献ばかりが多く過度に防衛的」な論文が気に食わないのであれば「適度に」防衛的な論文で書くという手もあったと思う。というかこの本、エッセイとしては例外的なレベルで注釈と参考文献が多いと思うのだけど・・・。

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独断のいまさら読むとしたらおすすめ度:★★
「★2.0です。という冗談はさておきホントは2.5とか2.7とかそのあたりですが、3つまではいかないので。読んで損はないです」

★★★★読みなさい
★★★ 読みましょう
★★  読みたかったら
★   読まなくても


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