April 12, 2018

【400】ありふれた本物と「断捨離」という流行について。

最初に断っておくと自戒を込めてです。いや、込めてというより自戒メインです。断捨離という言葉が流行り出した頃からじわじわ感じていたことです。なにしろ僕も10代の頃は馬鹿みたいに消費して、40代になってから大量に捨てましたから。

僕達の日本社会は戦後、高度経済成長を体験しました。どんどんと物が作られました。どんどんと物が買われました。大量生産大量消費です。大量生産大量消費が一体何を大量に生産し、消費したのかというと、一言で言えば、どうでもよいものです(むろん例外もあります)。

どうでも「よくない」ものというのは、ちゃんと使いこなせば、使い勝手が良くて、丈夫で長持ち、そんなもののことです。「ありふれた本物」のことです。

安価に大量に作られた、どうでもよいものは、ありふれた本物を直接的に駆逐するとともに、どうでもよいものとありふれた本物を判別する能力を僕達から奪っていきました。どうでもよいのか、ありふれているけどどうでもよくないのか、その決定的な差異を読み取る必要性が霧散しました。結果、ありふれた本物は、当たり前の値段をしているがゆえに静かに消えていきました。

大量に産み落とされたどうでもよいものは、購入という快楽を与え、その残滓が部屋に廊下に貸しコンテナに溢れていきました。今度はそれを大量に処分しようとしているわけです。処分して気持ちよく良くなろうと。

「たくさん作って、たくさん買って、幸せ♡」がバカなことならば、「たくさん捨てて、気分スッキリ」も同じくバカなことではないのか。あまつさえ、前者が後者を兼ねるとしたら、バカの自乗ではないのか。バカの自乗がやるのだから、この次もやっぱりバカなのことをしでかすのではないか。

とりいそぎバカのとばっちりを喰ったのは、ありふれた本物たちです。

例えば、どの台所にもあった常滑焼の茶色い味噌や漬物のカメ、覚えてますか。あれを作っていた久松は廃業しました。こういうたぐいのありきたりだけど決してどうでもよいわけではなかったものたちが、いつの間にか知らないうちに消えていきました。

大量生産大量消費を反省して大量に処分するのもいいのだけれど、それよりも、むしろその勢いで、今こそ、ありきたりだけど決してどうでもよいわけではないありふれた本物たちをそこそこの価格でそこそこの量を買い戻すべきなのではないかと思うのです。もうすでに買いたくても買えないものも多いのだろうけど。

ありふれた本物をちゃんとした値段で買うのは良いことです。ありふれた本物とどうでもよいものを見分けられるというのは良いことです。ありふれた本物を毎日使いこなせるのは心地よいものです。とどのつまり、ちゃんとしようと思ってるということです。ありふれたことです。

たまには真っ当で保守的なエントリーをと思って書いてみました。

なお、「ありふれた本物」という言い方は、もちろん「民藝」の一つの言い換えとして使っています。民藝としなかった理由は、民藝という言葉によって概念化されたことで以後まとってしまった過剰な「伝統的価値」を一旦リセットしたかったからです。民藝の内部での伝統的価値によってランク付けされるような、そういう価値観を排除して、僕達の身の回りのありふれたものの「ありふれている」ことの中から、見出せればと思いました。つまり、いうまでもなく、本来的な意味での、それが誕生した当初の、民藝の視点そのものです。


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