April 26, 2018

【404】本を読むことについての覚書

実家の片付けをしていたら疲れてきたので、ブログを書く。本について。

僕の住む家、つまりまるネコ堂は、比較的本棚が多いと思う。しかしそれでもこれまでに僕が読んできた本のうちのほんの一部で、極めて厳しい選別を通過したものだけがここにある。したがって、まるネコ堂にある本は面白い本である。一部、僕が読んでいないものもある本もあるけれど。

電子書籍については僕は肯定的である。僕自身は基本的に本は紙に印刷されたものを読むけれど、これはこれまでの僕の習慣が大きい。最近は良さそうな端末も出ている。キンドルペーパーホワイトなど、実物を見たことはないけれど。今後本を読み始める人が、電子書籍から始めるということはあると思うし、あって良い。紙の本と電子書籍は異なる特徴を持っているというだけだ。電子書籍で読むということがどんな出来事をもたらすかは、はっきりと言うことはできないけれど、あくまでも本というものの領域の内部の出来事として包含される。排除すべきものではない。

文字による表現を現出し、残すというのが出版文化である。その一翼を担うのが文庫だ。文庫本というのは文字通り「文の庫」、アーカイブであり、文庫になるということはアーカイブされるべきだという判断がなされたものだ。電子書籍はこの出版文化の一つの中心に対してある刺激を与えるだろう。電子版の岩波文庫を、今後出版されるタイトルも含めて、一生好きなだけ読める権利が妥当な価格で提供されたら、かなり真剣に検討する。子供にプレゼントするかもしれない。

本を書くことや読むことは、感じるということや思うということや考えるということについて多大な影響を及ぼす。鮮烈に充溢させ、その人にとってその人が再び現われる契機そのものとなる。これを人間が手放すとは思えない。少なくとも出版という、ある連続した所作が滅びるということがない程度の数の人間が、今後も本を手放さない。

面白い本は軽くない。面白い本を読みたければ、重たい本を持ち続けられる筋力をつければよい。読むための筋肉と呼ぶべきものがあるし、これは鍛えることができる。読むということは、読まない人が「考えて」いるほど、虚構ではない。均質でもない。静寂でもなく、既存でもない。

本を読む人が、読み慣れていない人のためにやるべきことがあるとすれば、紹介してあげたり、要約してあげるのではなく、読む人の読むことの精一杯をさらけ出すことだ。書く人の精一杯がさらけ出たものを読むのだから。



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