ニフティサーブと言うのはパソコン通信である。パソコン通信。なんともたまらないダサさの語感と字面で、書いてるだけで恥ずかしくなるのだけど、インターネットが普及する前は、これだった。
僕が初めて買ったコンピュータはマッキントッシュで、大学院の修士だ。1995年頃。高かった。バイト代を必死にためた記憶がある。友人が当時珍しいマックユーザーだったので感化された。普通ならNECのPC98シリーズを買った。
友人が僕をそそのかした手法は単純だ。当時アップルの代理店をやっていた大塚商会のセミナーに僕を誘った。担当者の話は全然覚えていない。話の終わりに流された短い映像が鮮烈だった。アップルが作ったコンセプト映像「ナレッジナビゲーター」。
これですっかりやられたのだから当時の僕は友人よりも単純だった。今でも単純だけど。改めて観てみるとなかなか良くできている。ここに出てくるのは、あくまでもアップルが描いたコンピュータの未来像であり、実際に販売されていた当時のマッキントッシュとは似ても似つかない。そんなことは百も承知で買った。一体何にそんなに衝撃を受けたのだろう。
今なら少しわかる。多分僕は、このズボラで知的な大学教授にやられたのだと思う。特にズボラなところに。カッコイイと思ってしまった。マッキントッシュを買えばそんな風になると思ったんだろう。友人にしろ大学教授にしろ、僕は機械そのものではなく、機械を使っている人を見て機械を買ったのだ。
マッキントッシュを手に入れた僕は、当然のようにモデムを買った。モデムはマックを電話線につなぐ通信機器。そしてパソコン通信をはじめた。僕にとってコンピュータは他人とつながっていないといけなかったのだ。ナレッジナビゲータがそうであるように。
ニフティサーブはパソコン通信の大手だった。フォーラムというのは掲示板で、そこに登録して、ハンドルネームでコメントを書き込める。fmacbgというのはそのフォーラム名というか略号でエフマックビージーと僕は読んでいた。マッキントッシュ・ビギナーズ・フォーラムというのがたぶん正式名称で、その名の通りマック初心者が情報交換するための掲示板だった。ニフティサーブでも指折りの巨大フォーラムで、マックの情報以外のやり取りも多かった。
掲示板といっても、ただのテキストのやり取りである。集団文通みたいなものだ(そんなものがあるのかどうかは知らない)。フォントの指定もサイズも太字もアンダーラインも何もない。ただの純粋な文字情報。コマンドを入力して、順番にコメントを表示させていくだけ。これに大金をはたくのだ。
まず、電話代がかかる。さらにニフティの接続料(課金と呼ばれていた)。fmacbgは参加者が多くコメント数も多い。記憶では万単位の参加者がいて、コメント数も一日数百件はあったと思う。この数字がなぜ大きいのかというと、当時の通信環境が貧弱だからだ。僕だけでなく全員の通信環境が。
僕は9600bpsという速度のモデムで接続していた。9600bpsというのは、9.6kbps。今ならスマホを使いすぎて月末にペナルティを喰らったときの速度が300kbpsだから、比べ物にならない。それでも僕のは高速な部類だった。単純計算で速度が倍になれば接続時間は半分で済む。電話代も課金も半分で済む。高速モデムは高価だが、fmacbgの常連ぐらいになると、ランニングコストのほうが遥かにかかるので、だいたいみんな高速モデムに切り替えていく。
毎日毎日、アクセスポイントまでの「市外電話」を数十分かけて、しかもそれに分単位の課金が加わる。合わせて月に1万から2万円以上かけていた。学生には大金である。これでもできるだけ節約するために、ホストがすいている明け方の4時頃の時間帯を狙って、自動でマッキントッシュを起動し、自動で電話をかけ、自動でフォーラムを巡回し、自動でログを保存し、自動で電話を切り、自動でマッキントッシュの電源を落とすハードやソフトを導入した。そんな涙ぐましい努力をした上での料金だ。混雑時間帯にリアルタイムで繋ぎっぱなしにして画面を見ながらコマンド入力して、コメント読んで、なんてことをやると、地獄を見る。
どんなコメントであれ表示させないと読めないわけで、表示させるためにすでにお金がかかっている。しかも万単位の人がそれを支払うことになる。この文字数に紐付けられたダイレクトな金銭感覚が強烈な圧力を生み出していた。
「署名は3行まで」「送信する前に必ず読み返しなさい」「うなずくだけならモニターの前で一人でうなずきましょう」「冷静に」「引用は必要な分だけ。本文より引用の方が長いのは迷惑。全文引用はもってのほか」など、マナー違反は厳しく名指しで指摘される。一文字たりとも無駄にできない。未来の通信どころか、ほとんど電報である。
この状況でハンドルネームだけの、どこの誰かわからない相手とやり取りする。プロフィールはなく、署名も短いか、ないに等しい。当然のごとく喧嘩が頻発する。極小の文字数にまで刈り込んで、相手を思いやりつつ、誰にでもわかることようなことではない価値のあることを書く。ハタチそこそこの僕にとって曲芸レベルのシビアな「言論」世界だった。
僕は一つのコメントを書くのに1時間ぐらいかけていた。その前に前日分のログをすべて読む。それに1時間ぐらいかかる。だからコメントは書けたとしても一日一個。そのコメントは明け方、僕が寝ている間にマッキントッシュがジーピロピロピロとか音を立てて、送信される。もしも返信がつくとしたら、それを読めるのは翌日か翌々日。その間、期待と不安で胃が痛む。
返信がつくと一人ではしゃいだ。そしてまた1時間ぐらい返信を考える。返信するかしないかも考えないといけない。見かけ上、一対一のやり取りに見えても、同時に数万人にとって金を払って読む価値のあるものであることが要求される。個人的なやり取りなら直接メッセージを送ればいいのだから。
そこでどうにかやっていくために僕はとにかく読んだ。全ては過去のコメントにしかない。どんな性格なのか。何が言いたいのか。何を言われたくないのか。文末の「ですね」はどういうつもりでつけたのか。
こうやって僕は文字から他人を推し量るすべを身に着けた。同時に、文字によって他人がどう思うのかも。
しかし「文章力」や「読解力」という言い方は、脱臭されているのだ。もともとの臭いが戻ってきたとき、僕は僕のことを書くということができなくなっていることに気がついた。ただ外的な圧力のみによって僕に浸透してきたものを僕自身が手に入れた何か特殊な「力」だと誤解していたからだ。仕事の手応えだと思っていたのは圧力への抵抗でしかなかった。
他人とつながるために書くのではなく、書くことで他人とつながってしまうように書きたい。
染み付いてしまったものを自らの意識の視野に入れるのはとても難しい。ひょっとしたら、未だやったことがないことをやること以上に難しいことなのかもしれない。だからこそ、この昔話を書いておきたかったのだと今わかる。