「何をもって読めたと言うのですか?」
例えば、カレーを作ってそれを食べたとする。
「何をもって食べたと言うのですか?」
という問いは成立するだろうか。「食べた」という体験の自明性は明らかではないだろうか。
「食べた」という体験そのものを事後に取り消すこと、つまり、
「それは食べたことにならない」
という事態は生じうるのだろうか。
僕にとって「読む」というのはそのような体験としてあるので、何をもって読めたというのかと問われれば、文字を文字として捉えた時点ですべて「読めた」と言えばいい。
ここで、質問の答えは終わるのだけれど、大抵の場合、質問者はこの答えに満足しない。
つまり、この「何をもって読めたと言うのですか?」という問いは、別の問題を指している。それは或る幻想の権威とその権威からの許諾の問題である。
実は、この質問者が抱えている質問の実体は「私が読んだものはこれこれこういうものでしたが、この説明をもって『読んだ』ことにしてもよろしいでしょうか?」という許可申請なのだ。
質問者は、読んだのに読んでいないことにされてしまうような或る権威の存在におびえている。もちろんその権威は幻想としてしか存在しない。
この問題は簡単に解決できる。
「私はたしかに読んだ。しかし、その内容は説明できない」と答えればいいだけだ。
読むこととその内容を答えることは別である。自分が読んだものについて何かを語ることは、読むことというよりもむしろ書くことである。
「読んだ。しかし、書けない。」
ということなだけであって、なんの不思議もない。
自信をもって、読んだものを読んだと言えばいい。内容が理解できているとか、できていないとか、感動したとか、しないとか、そんなことが「読んだ」という体験そのものを脅かすことはないのだから。