新(あらた)のアトピーのおかげで、まるネコ堂はさらに洗練された。
アトピーの環境面の対策として必須事項はハウスダスト(カビ・ホコリ)の低減である。そのためには毎日の掃除が重要である。とはいえ、毎日家を全部掃除するというのはかなりの重労働で、安易にやろうとしても家族が潰れるだけだ。だから根本的な対策をとらなくてはならない。つまり、そもそもなるべく掃除がしやすい状態にする。そのために物を減らす。今、使っているもの、使うあてが確実にあるものだけを家に置く。こういう流れで、床の上にはほぼ物を置かないようにしている。
もともと僕はまるネコ堂をお寺のお堂のようなところにしたいと思っていた。事実僕なりに、お堂っぽくしていたつもりだったけれど、この話をしてもみんな首をかしげるばかりだった。客観的にお堂っぽくなかったのだと思う。それがこの一ヶ月で一気にそれっぽくなった。
お寺のお堂にしたいというのは、東洋的な意味でのパブリックスペースをイメージしていたからで、僕は家の中に、誰でも入ってこれる場所を作りたかった。お寺というのはそういう場所だ。
網野善彦を経た(読んだ)今となっては、この「東洋的な意味でのパブリックスペース」という言葉は、簡単に日本語で「無縁」と言い換えられるのだけれど、「無縁」という否定語では「有縁」との対としてイメージされがちである。無縁と同様の意味がある「公界(くがい)」のほうがパブリックスペースとしてのニュアンスは近いだろうけれど、この言葉自体が知られていないし、知っている人も大半はおそらく「無縁・公界・楽」という網野の著書タイトルのセットとして認識しているだろうから、純粋に「公界」という字面のニュアンスは伝わりにくい。だから、再びあえて回りくどい「東洋的な意味でのパブリックスペース」という言葉で今はいいかと思っている。
パブリックスペースがパブリックスペースとして機能するために必要な事項はなにかということも、今回のアトピー対策でよくわかった。清浄さである。
機能性、利便性、アクセス、安全性などは二の次で、まずとにかく維持すべきは清浄さである。清浄でないパブリックスペースはそもそもパブリックスペースとして存続できない。汚い公衆トイレはもはや「公衆」トイレではない。どれほど機能的な遊具を備えていても、ゴミが放置されている公園は「公」園ではない。誰も行かない場所、特定の人しか行けない場所はパブリックスペースではない。清浄な空き地に劣るのだ。
公共性が最重視すべきは清浄さである。逆に言えば、清浄さが〈自然に〉保たれる場所には、もともと公共性がある。たとえば河原、たとえば森、たとえば海。いわゆる自然は〈自然に〉清浄さが保たれやすい。それらの多くが網野善彦の言う無縁と重なることは必然である。
無縁の原理をまとう人々が、それら無縁の場で営んでいた生業のなかで、ひときわ重要なものに「死」の扱いがある。即物的には死体処理であり、精神的には葬送。これらは「清め」の仕事であり、だからこそ死という「穢れ」を扱うことができる。のだけど、この辺のことを突っ込んで書くには僕は力不足。
ともあれ。ついこの間まで僕は掃除嫌いだった。今ようやく掃除の意味を知った。