February 28, 2019

【555】少年期にスポーツに打ち込むことについて。

久しぶりに危険なことを書く。

少年少女が中学高校時代に部活に入りスポーツに打ち込むことに対して、僕は単純にポジティブに捉えることができない。むしろネガティブである。

どういうことかを書く前に、倫理観から僕自身のことを前提として書いておく。

僕は中学も高校もいわゆる帰宅部だった。運動部に入る気もなかった。運動神経が鈍く、いわゆる運動音痴だった。自己弁護的に追加するとすれば、運動部特有のヒエラルキーに耐えられなかった。組織的な意思決定とそれへの追従ができなかった。なので、これから書くことを単なる僻みとして読まれることは覚悟している。

さて、本論。

中学高校の部活で対象となるスポーツの大半は、基本的に勝敗という単一的な価値観に支配されている。「健康で健全な心身」「仲間を思いやる気持ち」などいかように装飾されようとも、最終的には、勝敗、タイム、点数、などの客観的で絶対的な単一指標の中での序列に自分自身を位置づけるという意識を強固に植え付けられることになる。

この単一軸基準の絶対的指標主義を思春期に刻み込まれた人が、物事や出来事というものは単一の指標で図ることはできない、というアタリマエのことをおとなになってから、もう一度学ぶことは果たして可能なのだろうか。

僕にはかなり困難なことに思える。これは、僕が知っている大人たちを見ていてそう結論する。

少年少女時代にスポーツを通して単一的な指標を叩き込むことのメリットは、大人になってから組織のなかに組み込まれたときに大きく発揮する。組織的に御しやすい人間を育成するということである。よって支配層から見た場合、少年少女が取り組むべきは、文学や芸術ではなく、スポーツであることは明白である。厳しくしつけられた野球少年はブラックな営業職に持ってこいな人材に育つ、などというと言い過ぎかもしれないが。

文学や芸術は、単一の客観的指標で制御しにくい。たとえコンクールや賞が設定されたとしても、その当人として表現に生きるためには、そういった客観的な外部指標は一時的な腰掛け、あるいは利用すべき実績といった程度の扱いでしかなく、日常的に対峙すべきは、誰もいない荒野にただ一人、どこへ向かえばいいのかわからないような状況そのものである。こういう人間を組織オーダーに従わせるのは極めて難しい。

思春期に文学や芸術といった表現にカブれることの危険性は確かに無視できない。ときには死すらも射程に入ってしまう。それに対してスポーツは遥かに安全である。

しかしこの表現の危険に対して、それによって世界が面白くなるのだとすれば、大人が全力で支えるべき価値があると僕は思う。

単一的な「勝敗」に支配された窮屈な場所ではなく、ただ広大な荒野にたった一人で立ち尽くす若き意識は世界にとってなによりの宝だ。

以上、やや短絡的な書き方になったが、大きく外している気はしない。


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