Showing posts with label 自分というものの仕組み. Show all posts
Showing posts with label 自分というものの仕組み. Show all posts

August 10, 2021

【815】運転免許を更新しないことにした。

 この八月で五十になった。僕は五十年生きてきた。流石に感慨深い。よく生きてこれた。

 運転免許の更新をしないことにした。運転をしたいと思わない、というか、もうむしろ、したくないと思うようになったからだ。更新期間は誕生日から一ヶ月猶予があるので、何事もなければ9月4日に失効する。それ以後は運転できない。

 ちなみに、僕は該当しないけれど、運転免許を自主返納するとメリットがある場合がある。自治体や年齢などで異なる。例、京都府。2000円分のICOCAなど実用的なものが多いので、興味がある人は調べてみると良いと思います。


August 6, 2021

【814】仕事はやっつけない。

 「やっつけ仕事」という言葉がある。仕事の一つの有り様で、「その場限りの仕事」だったり「粗雑な仕事」だったりを意味する。

 これらの意味は仕事の側からのものだから、本当はその仕事をする人がいる。仕事をやっつける「人」だ。つまり、この「人」と仕事との関係が「粗雑」であり「その場限り」ということになる。

 粗雑に扱って、終わってしまえば、もう捨ててしまう。二度とこの「人」とこの「仕事」は関係を持たない。そんなイメージだと思う。あくまでも、人と仕事は切り離されていて、人にとって仕事は打ち倒すべき敵であり、勝つか負けるかということだろう。こういう仕事観はそれほど特殊なものとは思えない。

 こうやって「やっつけ仕事」をよく見れば、「やっつけ」ではない仕事を考えることもできそうだ。

 人と仕事はどのような関係にありえるか。

 人と仕事は分離できるのか。

 仕事が終わったあと、その仕事はその人にとってもはや用済みなのか。

 仕事は敵なのか。

 こうやって、いろいろと考えることができる。

 幸福な仕事観はたくさんありえると思うが、例えば、その一つはこういうものだと思う。

 その人とその人の仕事は切り離すことができない。その人がその仕事をやるということは、その仕事がその人の一部となり、その仕事を通して、その人が変わっていく。仕事が人になっていくような仕事。

 この仕事観も、理想だと言い切れるほど特殊なものとは僕には思えない。選べるのだとすれば、僕はそういう仕事を選ぶようにしたい。

March 16, 2021

【793】読み書き論、現時点で書けるもの。

 文章を書いている人を文章の中に書き込むことはできない。「私は今文章を書いている」と書いても書かれているのは文章を書いている人の姿であって、まさにその文章を書いている人そのものではない。しかし、だから文章を書いている人を文章の中に書き込むことはできない、と結論するのは間違っている。

 文章を読んでいるとその文章を書いている人の姿を感じる時がある。あるいは、文章を書いている人の心の動きを直接的に感じ取れるときがある。こういうとき、かならずしも文章そのものには書き手の姿が描写されているわけではない。それでも、そういう感じがするときがある。

 淡々と子供の様子を綴った文章に親の愛情深い眼差しを感じることがあったり、年表のごとく事実の羅列を書き記したものに激しい怒りや悲しみを感じたりすることがある。

 こういった読文感覚がいったいどうやって起こっているのかを説明しようとすると、かなり難しいし、普通は手っ取り早く、作者の実際の家族構成などを引き合いに出して「この文章を書いた時点で、作者の子供はなん歳ごろで」といったことを根拠にしたり、歴史的社会的な事件の凄惨さやそれに関係する作者の立ち位置など、文章の外部で説明しようとしたりする。

 しかし、それはおかしい。作者がどのような立場にあろうと、読者は文章を読んでいるだけだ。どれほど文章外の情報を得ていようとも、この現象が生じるのは、その文章を読んだからであって、あくまでも文章にその原因を求めるのが筋だ。外部情報のトッピングはあとからいくらでも足せるが、あとからしか振りかけられない。

 そこで、文章の内部で、その作者の姿が立ち現れる仕組みを説明する必要がある。少なくとも文芸批評家にはある。例えば吉本隆明は、これを「視点」で説明しようとする。登場人物を俯瞰で見ていたはずの視点が、次の瞬間、その人物の主観になっていたり、あるいは、内的な視野になったり、というように説明することで、この転換する視点の軌跡から、ある空間構造が生まれ、そこには作者の意識が蒸気のように立ち込めることがある。蒸気のような意識に読み手が重なるようにして、作者の意識が直接的に読み手に入り込むことで、書かれていない作者の姿や意識すらも「伝わる」ということが起こる。これはかなりうまく説明されているし、これ以上うまく説明できる気もしない。

 それでも何か物足りない気がするのはなんだろうか。書くことや読むことを神聖視してしまっているのかもしれない。そんなにかんたんには説明できないはずだ、というのは、説明できてしまっては困るということかもしれない。

 細かいことではあるが、一つ言えることは、僕はそんなに見ていない。記憶というものは視覚的ではない。覚えているのはビジョンではない。イメージというのは視覚にとどまらない。聴覚像、味覚像、嗅覚像、痛覚像なども一発で変換できるぐらい一般性を持った言葉になっている。だとしたら「感情の像」のような、悲しみの像や愛しさの像というものもありえるだろう。イメージというカタカナ語をそれぐらいで使ってみてもいい。そのイメージをもう一度、言語の持っている構造体に組戻してみるとどうなるだろうか。

 作者の存在やその意識を感じ取れるというのは、作者の意識のイメージを持つということだ。持つというと能動的に思えるが、持たされるという方が近い。ここでいうイメージは視覚にとどまらない。意識を映像化したもののことではなく、意識を意識として機能させたままその作者から分離して「意識のイメージ」として取り出したものだ。意識のイメージというのは意識そのものと同じように駆動する。それが読者の意識に浸潤してくる。

 ある言葉にならない体験を誰かに言葉で伝えようとした場合、それそのものを言語化することではなく、書かれた何かしらの言葉によって意識を構造化し、その構造のなかでイメージとしてその言葉にならない体験のイメージを湧出させる。読み手はそのイメージを自身の意識に吸い込むことで、その言葉にならない体験を、より正確には、その言葉にならないその要素を、得る。

 だから、逆に言えば、きれいな夕日を見たときにある言葉にならない感覚を得たということから、「きれいな夕日を見た」と記述された体験のシーンが書かれるとする。それを読んだ人が「夕日」とは別種の「赤ん坊が生まれた」という体験のシーンでの曰く言い難い思いを、夕日の話として書かれた文章を読むことで得るということも起こりうる。この場合、夕日と赤ん坊の誕生を結びつけるものは、その人にしかないし、その人にしかなくて良い。一般的な象徴関係は結ばれる必要がない。夕日と誕生とを結びつける因果をその人の生い立ちや社会のあり方などで説明することはできないし、必要もない。この特殊な結びつきは、文章のなかの構造によって生じている。


===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●リクエスト開催:文章筋トレ 
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★4月7日開催
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●スピノザ『エチカ』ゼミ(全24回)
2021年4月開始
https://marunekodosemi.blogspot.com/2021/02/35.html

●吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●言葉の表出、夏合宿2021
https://mio-aqui.blogspot.com/2021/03/2021.html

●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
https://gengoweb.jimdofree.com/

February 7, 2021

【780】近況。

 昨日の小説部会のために書いたレジュメが近況の報告になっていたので、こちらにも掲載。最近はこういう感じで、レジュメという名目で話すことを予め書いてみている。それが結構面白い。話をすることと文章を書くということの両方の重なり具合がいいのかもしれない。

 話すときにはこのレジュメを見ながら、この通りではなく話している。近況報告ぐらいならレジュメ無しで話すこともできるけれど、レジュメがあるときのほうが話自体が面白くなっていると自分では思う。




小説部部会 大谷 2021年2月7日

▼旧暦の正月に向けて、次の一年についてじっくり考えることができた。新暦は、秋が終わって、冬が来たと思ったらすぐに歳が変わってしまい、途中で打ち切られる感じがする。とにかくゴールすることで精一杯で、その直後の正月は息を整えるだけ。新暦は鋸歯状。旧暦の正月は冬が深まっていて、そろそろ春を感じ始める時期にあたっている。冬の最中を使って春以降の準備することができる。旧暦はサインカーブ、季節とあっている。

▼春から「エチカ」ゼミをやる。予定を立てた。全体の区分け。こういうことからすでに「エチカ」という気がする。

▼今年は1月から経理の帳簿つけができている。快挙。これまではいつも確定申告の時期にまとめてやっていた。経理は、毎年よくわからないこととしてやっていて、これまで全く進歩がなかったが、今年は大きく変化した。かんたんだが予算もたてた。

▼芸術祭でやりたい方向性がだいたい決まった。

▼日記が続いている。長月廿四日(2020年11月9日)から。毎日、一日中考え事をしているので、だいたいそれを書いている。考えることの楽しさの要素が増える。もっと早くからやっておけばよかった。


===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●リクエスト開催:文章筋トレ 
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★2月8日、13日、26日開催決定
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●スピノザ『エチカ』ゼミ(全24回)
2021年4月開始
https://marunekodosemi.blogspot.com/2021/02/35.html

●吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
https://gengoweb.jimdofree.com/

January 24, 2021

【776】「受け身の学習」なるもの。

・受け身という言葉について。

・先生の話を生徒が黙って聞いているだけの授業を受け身だとする意見の人は、黙って本を読むだけの読書も受け身だと捉えているのだろうか。寿司屋で板前が握る寿司を黙って食べるだけの食事も受け身なのだろうか。

・先生の言うことを黙って聞いているというのが受け身であるかどうかは、生徒の中で何が起こっているかによる。「本を読む」ということが、本に書いてある情報を摂取することだったり、「食べ物を食べる」ことがカロリーの摂取だったりするように、先生が所持している知見を生徒が摂取するというのであれば、受け身ということになるのかもしれない。

・一方で、本を読むことは書かれた世界のなかで出来事を体験することなのだ、とか、食事をするというのも一つの全体的な体験なのだ、と捉える人であれば、ある分野について自分よりも多くの知識を持ち、それについて長い時間、多くのことを考え、思い、感じてきた人の話を聞くことで、聞き手に何かが生じ、一つの体験として体験できるという状況を想定することができるはずだ。

・僕にとって先生とはそのような事象を引き起こすことができる人で、その人の話をただ黙って聞くことは、文字通り勉強になる。学習というものや教育というものは本来そういうものだと思う。

・さて。「受け身の学習」と呼ばれるようなものは一体何なのだろうか?

・「何かでミスしてひどく怒られた。だからもうそれには触れないでおこう。」というような「学習」のイメージが浮かぶけれど、これを「教育」とするのであれば、受け身であるかどうか以前の思想の問題に思える。


===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●リクエスト開催:文章筋トレ 
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★1月29日、2月13日開催決定
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●月一回(単発参加可能):『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
https://gengoweb.jimdofree.com/

January 21, 2021

【774】「イヤイヤ期」と呼ばれるもの。人間への挑戦。自然がやってくる。

・アラタへのイライラについて。

・パンが食べたいというのは、いい。玉子を食べたいというのも、いい。パンと玉子を載せる皿を運びたいというのも、注意を要するが、いい。ただ、その前に泥だらけの手を洗ってほしいだけなのだが、それをどうしてもやらない。絵本を読むのもいい。積み木をするのもお絵かきをするのもいい。散歩に行くのもいい。ただその前にパンツとズボンを履いてほしいだけなのだ。それをやろうとしない。全力で拒否する。それに対してイライラする。

・できないことを要求しているわけではない。「できなさ」という幼さ、稚拙さに対してのイライラはない。できないことをやろうとしている姿を見るのはむしろ喜ばしいぐらいだ。問題は、できるはずのことをやらないようにしている、少なくともそう見えるということだ。手を洗うのもパンツやズボンを履くのも、もうすでにできないことではない。これまでに何度となくできているのだ。それを「やらない」。それにイライラする。できるイメージがすでに僕にあって、そのイメージが意識的に実行されないことにイライラしている。できなかった時期は僕が濡れ布巾で手を拭っていたし、パンツもズボンも履かせていた。それに対していらつくことはなかった。

・手を洗うことやパンツやズボンを履くことは、人間にとって必要なことなのだろうか。少なくとも現代人にとっては必要だ。手を洗わなければ許容できないほどの高いリスクで感染症にかかり小児が死ぬ確率は上がる。パンツやズボンなどの衣服を身に付けなくても生きていけるような温暖な気候の範囲に、我が家はない。いずれにせよ、現代人として受け入れがたいレベルの可能性として、死ぬということだ。それが「手を洗う」ことや「パンツやズボン」を履くことの「現代人には必要」な意味となる。

・逆に言えば、「現代人として」「生きて」いかなければ、食事の前に手を洗わないことやパンツやズボンをはかないことを許容できることになる。しかし、それは、どの時代まで遡ることになるのか。そして、その結果、生存圏はどれほど限られるのだろうか。どれぐらい死ぬのか。

・アラタにとって未知なのは「手を洗うこと」ではない。もちろん「パンを食べること」でもない。それらに順序があるということだ。「パンを食べる」前に「手を洗う」という現代的な人間における順序がわからない。着衣もそうだ。逆に言えば、一連の手順としてすでに理解していること、例えば「コーヒー豆を挽いてコーヒーを淹れる」がそうで、これは大人から見ると比較的高度な理解力が必要そうに思えるものだが、意外にも、その過程の中でいくつか自分では難しい手順があるものの、全体的な順序はきっちりと従ってやることができる。一連の手続きが総合的に理解されているのだ。つまり、一連かどうか。それとこれとがどういう関係があり、どういう順序になるのか。そのわかりにくさに人間の文化的水準があると言えるかもしれない。

・手洗いや着衣といった具体的事象は我が家において生じた衝突であって、他の家庭ではこれではない現実的事象として生じる。しかし、ほぼ確実に言えるのは、どこへどれぐらい向かったところで、結局どこかで限界が来るということだ。親の寛容さの限界にぶつかるまで子は突き進むだけだ。それがどこであれ。この事態は、そういう意味である一定の普遍性を持っている。「イヤイヤ期」と呼ばれる程度には。

・子育てから離れて見ればこの種の人間的規範はいくらでもある。「車が走っている道に走り出てはいけない」「産卵期の毒蛇にいたずらしてはいけない」「地震があったらすぐに海から離れなくてはならない」。こういったことも、ある場所、ある時代における人為的文化的人間的規範であって、守られなければ、許容できないレベルで人間集団の致死率が上がる。そういった集団的生物である人間として共有する普遍性のことだ。こういう規範を「守らない」ということが引き起こしうる摩擦にも拡大できる話かもしれない。が、ここでは広げない。

・さて。

・僕が子育ての途上で感じているイライラはおそらくこういうことだ。僕が、少なくとも人間であるということを前提として生きていることそのものに、起因している。ここで言う「人間」は、僕がそう捉えるということにおいての「人間」である。この「人間」は当然のことながら「現代性」を持っている。簡単に言えば「現代人」ということだ。その僕が「人間」だと思っている「現代人」の「現代性」に対峙しているのは、究極的には「自然」だろう。

・幼児から見れば「自然」の側から、親が知らず識らずに抱えている「現代において人間であること」、つまり「現代的な人工・人為」に対峙している。なんで食べたいものを食べるのに水道の蛇口をひねって手を洗わなくてはならないような文化的規範を維持しなくては生存できないのか。なんでパンツやズボンを身に着けないと生きていけないような気候域にそもそも棲息しているのか。なんで車なんてものが走っているのか。

・この二分法的対立が双方のイライラを誘発している。

・僕は今、自分でも意識しなかった、意識しなくても良くなっていた、前提レベルの「人間」「人為」「人工」の上に立って、「自然」と闘っている。僕の子供は今、当然のごとく生まれ持った意識する以前の「自然」を前提にして、「人間」と闘っている。

・この闘いはそれほど遠くない将来、決着がつく。悲しいかな、自然が打ち負かされる。すでに絵本を読んでいる。すでに言葉を使って親と話をしている。すでにおしっこを失敗したら悔しい。すでに親がするような「難しい」ことを真似してやってみることに喜びを見出している。すでに人間として生きることに楽しさや面白さを味わっている。すでにすでに。そうして、人間が一人増える。自然から移ってくる。

・「自然に帰る」というのは、「自然」というのが人間を取り巻く「環境」としてあるのではなく、人間というものそのものが「不自然である」のだが、その人間が変化することで「自然に帰る」ことができたとするなら、そのときそれはもはや人間ではなく「自然である」、死もその一つだ、ということなのだろうな、ルソーよ。

January 18, 2021

【773】習慣というものの悪さ。

 習慣というものは一般に良いものとされている。運動の習慣。勉強の習慣。歯磨きの習慣。

 そういう習慣の良さはよくわかるけれど、習慣というものによって損なわれていくもの、いわば習慣の「悪さ」があるようにも思う。

 これは例えば飲酒の習慣や喫煙の習慣といったような、その習慣の内容によって決まる「悪さ」のことではなく、内容的に良いとされている習慣であっても必ず生じている、習慣というものそのものが内包している「悪さ」のことだ。習慣というものの本質が「悪く」作用している面とでも言えばいいだろうか。

 なかなか名指しすることが難しいので、同じ言葉の繰り返しになってしまうのだけれど、習慣にすることによって損なわれている何かがあるように僕にはどうしても思えるのだ。

 文章を書くことを「習慣でやっている」人の文章と、文章を書くことを「習慣としてはやっていない」人の書く文章とで、何かが違っているようにも思える。これは文章を書く量の問題ではなく、書くということそのものの本質的な問題のように思う。

 もちろんこれは文章に限らない。料理にしろ、絵にしろ、人付き合いにしろ、商売にしろ、そうだ。

 たぶん僕が言っている習慣の「悪さ」というのは、一般に習慣の「良さ」と言われているものと同じもので、その反対面のようなものだろう。習慣化することによって何かを得るというプロセスで同時に何かが失われているというイメージでもある。

 ヘーゲルはそれを自己疎外と呼んだ、ということが、今年読もうと思っているヘーゲルの『美学講義』には書いてあるのだろうか。


===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●リクエスト開催:文章筋トレ 
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★1月29日、2月13日開催決定
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●月一回(単発参加可能):『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
https://gengoweb.jimdofree.com/

August 14, 2020

【735】覚えていられないが、思い出さないわけではない。

時々自分の文章が心臓に悪い。書くときでは無い。読むときだ。最近の文だ。自分のだ。以前のでは無い。ここ一年ほどだ。僕でない人が読むとどうなるのかはわからない。どうなるのだ。自分で読んで心臓に悪い。望んだのか。ドキドキする。何を書いたか思い出せない。読み進めている間、思い出せない。簡単でない。コーヒーが無い。コップが空だ。机の上だ。見なくてもわかる。曇り空は時間がわからない。目が痛い。モニターが明る過ぎる。違う、部屋が暗いのだ。繋がりのない事柄だ。外も暗い。交差する事柄だ。僕の認識はいつも繋がりがない。因果の射程が短いのだ。覚えていられない。別々の物語が進行している。雑誌に載っている連載は複数あるが、同じ号の別の記事とは因果がない。それを続けて読む。シネコンで立て続けに三つ映画を観た。二十代だ。壁が赤い。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●12月15日から21日:言葉の表出、冬合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/05/2020.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一回の土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●月一回:『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html

●まるネコ堂芸術祭・出展者募集
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_84.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●雑誌『言語7』発行
https://gengoweb.jimdofree.com/

May 30, 2020

【707】身近なこととずっと遠くにあることをどう関係させるか。自分の遠近法。

生後三ヶ月、アラタのアトピーが酷いことになって、生活も精神もボロボロだったときにデリダの『グラマトロジーについて』のゼミをやって、本当に自分はどうかしていると思った。こんな時に哲学書か。哲学者でもないのに。

難解な哲学書を頑張って読んでもアラタのアトピーは全く良くならない。なるわけがない。無関係だ。無駄に膨大なエネルギーを投下している。そんな暇があれば雑巾がけをもう一度やるべきだ。風呂場のカビを1センチでも落とすべきだ。

やってよかったと心から思った。今でもそう思っている。デリダの難解な哲学を必死になって読んでよかった。

デリダの哲学になにかのヒントがあったかというと思い当たらない。そういうことではない。ただ、自分の身近にあることとずっと遠くにあることがたしかに関連しているのだという根拠のない確信は得ることができた。それで十分だ。

物事の重要度を自分からの距離で判定するような姿勢に対する拭いきれない違和を目視できただけで十分だ。

僕の経験はそういうふうになっていない。身近であることが重要で、自分から離れていくにつれて重要度が下がっていくようには、僕はなっていない。遠ざかるにつれて鮮やかさが失われるような視界ではない。どうやら。

残されたのは身近なこととずっと遠くにあることを関係させる自分なりの遠近法をどうするかだ。考えている。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●12月15日から21日:言葉の表出、冬合宿2020

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●定期:デッサン会
大谷美緒の企画です。
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/04/blog-post_89.html

May 5, 2020

【686】子供が居る家を職場にしていく。

ゴールデン・ウィーク、保育園休み、子供1歳児ずっと家。

進めなくてはならないことがいくつかあって、普段ならばそれほど手こずらずに仕上げられるだろうことなのに、手を付けることすら難しい。という状況が続いている。

なので、これを機に、子供が居る状態でも仕事をやっていけるようにするにはどうすればいいのかということを試行錯誤してみようと思っている。何らかの理由で保育園が利用できない事態はもう少し想定しておいたほうがいい。

連休前からすでに保育園からはコロナ関連で強い「登園自粛要請」が出ていて、できる限り休みを取るようにはしてきた。その分、仕事はどんどん後ろ倒しになっていってフラストレーションが溜まっていった。これはよくない。

とりあえず、美緒と僕とで交代でアラタをみることにしたが、仕事に使える時間は単純に半分になる。これでやっていけるなら良いのだけど、早々に破綻する。というか、これで済むなら保育園に通わせる大義的な意味はなくなる。

で、ここからが試行錯誤。つまり、面白くなるはずの領域だ。

僕も美緒も自宅で仕事をしている。自営業だ。自営業の強みは僕は、生活と仕事の全体を投じることができる、その全体を自分で組み替えることができることだと思っている。

自営業とひとくちに言ってもいろいろなのだけど、僕たちがやっていることの多くは、自分で仕事を作って自分で遂行するタイプのものだ。他者からの注文を受けてそれに応えることで報酬を受け取るタイプのものは少ない。

だから、そもそもの地点から、生活と仕事を含めた全体から、再度、どういうことを仕事としていくのか、ということを作り出して行くことができる。仕事をどのような目的でやるのか、どのようなプロセスでやるのか、そういったことを含め、生活と合わせて全部を組み替えていくというイメージだ。僕たちがやっている仕事と生活はそういう自由度の中にある。

ということで、まずは現状の観察から始める。

1歳8ヶ月のアラタは、だいぶ一人遊びができるようになってきた。常に直接見ていなければ危険だという時期ではなくなりつつある。おしっこやうんこもだいたい教えてくれるようになった。つまり、直接的に子育てとして必要な「労働力」は減ってきている。一日中フル回転して家事と子育てをやっていた頃から比べると相当に余裕がある。

しかし、だからといって子供が家に居る状態で仕事は難しい。ここで仕事と言っているのは、パソコンを使うとか、文章を書くとか、本を読むとか、zoomで面談をするとか、そういったことだけれど、なぜ難しいかと言うと、この手のことを僕や美緒がやり始めると、アラタがそちらに興味を持ってしまうからだ。近寄ってきて、マウスやキーボードや画面を触りたがる。本は取り上げられる。逆に言えば、大人が積み木や絵本に興味を向ければ、子供も一緒にそれをする。

この辺が現状だ。ここから考えて行けばいい。この状態で仕事と生活はどうできるのか。

とまぁ、方針はそんなところだけど、これを具体化するのはなかなか大変で、少しずつしか進まない。それはとてもよく知っている。しかも、こういうことは、あぁでもないこうでもないと試していって、ようやくだんだん上手くできるようになったなと思う頃には、子供が成長して次の段階に入っていて、そもそもそんな必要もなくなっている、といった経過をたどることもわかっている。

のだけれど、だからといってやらない手はない。思えば、そんなことばかりやってきた。単純に面白いからだ。


===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

●定期:デッサン会
大谷美緒の企画です。
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/04/blog-post_89.html

April 10, 2020

【661】「自宅で仕事をする」のではなく「自宅を職場にする」。

自宅兼職場の窓から見える景色。
次世代」などと豪語したのだけど、僕も普通に苦労をした。

勤めていた会社を退職しフリーランスになった直後、自宅で仕事をしようとしてなかなかうまくいかなかった。集中できない。集中できる時間が極端に短い。そこで、自宅では無理だと思い、手頃なカフェを探したり、いっそ部屋を借りて自宅と事務所を分けたほうがいいのではないかと思ったりもした。

この戸惑いの原因はどこにあったか。今になって言えるのは「自宅で仕事をしようとした」ところが間違いの元だった。厳密な言葉の意味において「自宅で仕事をする」のは無理があるのだ。

そもそも自宅というのは普通、仕事に適した場所ではない。一般に職場と言われる場所と自宅と言われる場所は、誰が見てもひと目で異なる環境だとわかる。それぐらい違う。

ごく普通のオフィスワーカーが「自宅で仕事をする」というのは「居酒屋で仕事をする」とか「富士山頂で仕事をする」というのと同じぐらい困難なことだ。不適切なのだ。

「自宅」は、なまじ「勝手知ったる場所」だから、事務仕事ぐらいできるだろうと高を括るところに罠がある。一日二日はなんとかなるが、一週間二週間あたりで限界がくる。一ヶ月はまずもたない。経験者である。

ここで、カフェなどを渡り歩いて仕事をしたり、オフィスを別に借りたりするという選択肢はもちろんある。

が、あえて困難な未踏の大地へ向かうこともできる。その一歩が「自宅を職場にする」だ。

「自宅で仕事をする」のではなく「自宅を職場にする」。この言葉遊びを甘く見てはいけない。

例えば「明日から在宅勤務してね」と言われたとする。

この言葉を「明日から自宅で仕事してね」と受け取らず「明日から自宅を職場にしてね」ととる。もう少し言えば「明日から新支店の支店長として、新しい拠点を築いてほしい」とあえて大げさに解釈する。

指定された物件は普通の住宅。しかも住人がいる。そこにゼロから職場を作るというミッションだ。

初日、赴任してまずやることは、現地の状況を確認することである。当然のことながら、職場として必要な備品、什器類は皆無と言っていいはずだ。

まずは、物件の一角に最低限の職場を構築しなければならない。

このときのポイントはただ一つ。「仕事に不必要なものは視界に入らないようにする」。これだけだ。

一番簡単な方法は、壁際にちゃぶ台でもおいて「壁に向かって」座る。視界に入るのは壁だけ。これで最低限の職場ができあがる。初日はこれで終わる。

二日目以降のタスクは、ここから少しずつ職場環境を改善していくことだ。

壁を見続けるのは気が滅入るから窓ぐらいほしいとか、椅子に座ったほうが長時間疲れないから机と椅子を導入するとか、そういうことを一つ一つ改善していく。

「ゼロから一つひとつ構築していく」というのが第二のポイントになる。

現状すでに完成している「自宅環境」を取り崩していくという住人視点のプロセスと捉えてしまうと途端に困難に遭遇する。住人視点はいったん保留する。

一つひとつ組み上げていくプロセスは、イメージとしては「支店の構築」なので、必要度の高い什器備品から導入していく。あくまでも業務プロセスだ。購買するにしても、消費ではなく投資である。

住人の視点ではなく、職業人の視点でことをすすめていく。

そうやって少しずつ職場環境が整うと、必然的に次の段階に入る。住環境が圧迫されているという事実に突き当たる。それなりに快適だった自宅が変質させられてしまっている。

ここからは本当に未踏の大地である。

住環境と職環境がたまたま同一物件内に存在する事態にどう対処していくか。これは一人暮らしでもかなりの難題だが、同居人がいた場合さらに難易度が上がる。

住と職や自己と他者といった、本来的に対立する二者の折り合いというのは、そうかんたんにつくものではない。二者の中点を取ればいいというような単純な解決がつくものはむしろレアケースで、だいたいは、すでにお互いがお互いの内部にまで食い込んでしまっている事態となっていて、抜き差しならない。

そういう事態にあって、物事は、そもそもどうあるべきかという原点にまで還元されていく。「ベッドを置く場所をどうしようか」という問いは、すぐさま「そもそもベッドは必要か」にまで遡るのだ。

そうやって、一つひとつの物事を再び捉え直していく膨大な作業を日常の生活と仕事を営む中で同時に進行させていく。数々の失敗が繰り返される。苦労して移動させた重たい本棚の置き場所が二転三転し、一度捨てたものを再度買い直したりもする。

この段階に至れば、普遍的に誰にも当てはまるような方法論は、もう無い。方法論そのものを自分(と同居人)で作り上げていくことになる。生きつ戻りつしながら対立していた二者が同時に変化していくプロセスだ。

こうして住と職、自分と同居人の関係は、何度となく捉え直され続けていく。「家」はただの物質的な「建物」ではなく、まるで生きているかのように変容を遂げ続ける。人と人との関係も更新され続けていく。

これを苦役と捉える人は、自宅と職場は分けたほうがいい。「仕事」というものを「金銭的対価を得る行為」と考える人も、さくっと自宅と職場は分けたほうが良い。以下に続く記述は、あまりにも非効率的でめんどくさいだけの、およそ「仕事」とは呼べない苦行と感じるだろう。

一方で、冒険の気配を嗅ぎ取ることができる人には、これ以上無い「あなた専用」のフィールドだ。あなただけの大地だ。

なにしろそこでは、全てがあなたと密接に関連している。あなたの住と職の両方を包括したフィールドだから、あなたが関与できる自由度は他のどんな場所よりも大きい。そこでは、あらゆることを試すことができる。あなたのすべてを投入できる。

現状ですら、通過点に過ぎないけれど、今日も僕は窓からの景色が最高な二階の書斎でブログを書き、本を読みノートをとる。

一階の工房は、パートナーが革製品をつくり、イーゼルを立てて絵も描く。

家の中の一番広い居間兼イベントスペースはキッチンも完備している。大人数で食事をしたり、講座をしたり、ちょっとしたステージにもなる。ここでコントの練習もした。

布団を持ってくれば最大10人ぐらいは寝ることもできる。

一階の工房。


今や僕にとって最高の場所だ。世界中のどこよりも仕事がしやすい職場だ。どこよりも住みやすい自宅だ。パートナーは面白さを失わず、僕の興味の対象で有り続けている。

自宅で職場。これ以上無い身近な場所だ。それが今でも未踏の大地だ。ここでやってみたいことはまだまだたくさんある。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●5月2日、3日:第1回 まるネコ堂芸術祭
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/1.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●定期:デッサン会
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/04/blog-post_89.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

March 25, 2020

【643】久しぶりに瞑想をする。

昨日まで春合宿。最終日の昨日は読む日。書くことはそれぞれだなと思う。いや、もともと、それぞれであることが書くことで顕になる。

合宿明けの今日は休みにしたいところなのだが、いつになく仕事が溜まってしまっている。新型コロナウイルスのために保育所の迎えを早めにしたり、家でみたりしていた影響がじわじわと出てきた。

それで、午前中、久しぶりに少しだけ瞑想をする。

瞑想と言っても誰かに教わったわけでもないし、ちゃんと調べたわけでもない。

ただ、庭の陽当りの良い場所に椅子と座布団を置いて、お湯を入れたカップをそばに置いて、懐炉代わりに手を温めたり、メガネを外したりする。鳥のさえずりがきこえたり、土の匂いがしたり、風がひんやりしたりする。

濁った泥水をしばらく放置すると、土が下に溜まって上澄みが澄んでくる。そういうイメージなのだけど、肝心なのは、土と水を綺麗に分離することではなくて、放置しておくと基本的に「落ち着いて」いくということ。「基本的には落ち着いていくのだ」という感じが得られればいい。

下に溜まった土が、再び舞い上がることがあるけれど、そちらになんとなく注意を振り向けることで、その土がまた収まっていくこと。他の土を巻き込んで次から次へと舞い上がっていかず、小さく舞い上がってもその都度また落ち着いていくのだということ。

そういう感じを僕は瞑想と呼んでいる。静的な完成を目指すようなイメージではない。常にいろいろな出来事が起こり続けているけれど、それらはやがておさまっていく。

5分とか10分とかその程度で終わり。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月20日から24日:言葉の表出、春合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

March 22, 2020

【640】『火垂るの墓』と新型コロナウイルス。隔離を巡る現実。

映画『火垂るの墓』をつくった高畑勲の言葉。神奈川新聞のインタビューから引用。

『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか。そう言うと大抵は驚かれますが

攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる
戦争が単純な攻撃衝動で起こるのであれば、戦争などという高コストな営みはもうとっくに他のなにかに置き換えられている。ワールドカップやオリンピックで十分だ。

どれほどコストがかかろうとも絶対にやめることができない営みによって戦争は要請され、最終的に了承されてきたのだ。誰が戦争を要請し、誰が了承するのか。「切実な思い」を持つ者だ。

たとえばそれは、愛する我が子を守ろうとする親なのではないか。我が子を悲惨な目に合わせたくないという当たり前の親心が戦争を始める理由にされてきたのではないか。一部の人間の利己的で衝動的な行動だけで国家による戦争が可能になると思っている人は戦争を軽視している。

お前の愛する者が殺されても良いのかと問われながら、戦争に反対できるのだろうか。不安や恐怖といった「切実な思い」が戦争を要請し、了承する。高畑の指摘は悲しいほど正確だ。この構造に僕たちは抵抗できるだろうか。

『火垂るの墓』が反戦映画でないとすれば、いったい何の映画なのか。

『火垂るの墓』が描いているのは、冷酷で呪詛をはきたくなるような「社会」ではあっても、その「社会」の一員として生きていかなくてはならない、というとても厳しい現実主義だ。自らも死ぬしかなかった14歳の主人公の少年は「愛する者が死に向かう状況で、いったいどうすればよかったのか」と、何千回何万回と今でも問い直し続けている。それほど困難な問いとして投げかけてくる。そうなったらどうすればいいのか、そうならないようにするにはどうすればよいのか、それを考え続けろと言っている。この映画を観てしんどくなるのはそのためだ。「悲しいお話」を涙を流して楽しむ映画ではないのだ。

この厳しい現実が示す困難さによって、監督自らが「反戦映画ではない」と明言しているにも関わらず、この映画が「反戦映画」として見られてしまう理由が見えてくる。反戦映画として見たがる意識がわかってくる。

それは、社会が自分から切り離されていて、自分とは無関係に、社会が勝手に悪くなったのだと思いたがる意識ではないか。自分を社会から疎外したがる意識ではないか。戦争を引き起こすのも、社会が冷淡なのも、自分とは関係がないところでそれが生じていると思いたがる意識ではないか。

戦争というものはどこかの悪いやつらが勝手にやっていることにすれば、主人公とその妹が直面した困難な現実を引き受ける必要がない。自分はそこにはいないからだ。「悲しいお話」で済む。

自分を社会から恣意的に隔離しようとする意識が『火垂るの墓』を反戦映画に見せている。自分には責任も関係も無いから「こんな悲惨な」と言う。自分で自分を社会から隔離して安全なところから「こんな悲惨な」と言う。

困難な現実に直面することを無意識に回避するために「反戦」という映画外の立場へと自分を逃してしまえる。

一方、新型コロナウイルスは、よくも悪くも自分が社会の一員であることを突きつける。安全な場所に自分を隔離し続けることが現実的に不可能であることを突きつけてくる。

新型コロナウイルスは戦争ではないが、戦争よりもずっと冷徹だ。冷酷に平等に自己を社会に関わらせておく。自己を社会から引き剥がせない状態に置いたまま事態を進行させていく。自分が巻き込まれることと自分が引き起こしていくことがつながっている。感染した者が感染させる。ただひたすらその連鎖だ。衝動も愛情も必要としない。

新型コロナウイルスは感染しても症状が出ないことがある。症状が出なくても感染力はある。自分はすでに感染している(していた)かもしれない。知らないうちに多くの人に感染させてしまっているかもしれない。自分はもうすでに何人かを死に追いやっているかもしれない。そういう状況で「こんな悲惨な」などと他人事のようには言えない。

自分には責任が無い、自分には関係が無いなどと言うことができない分、新型コロナウイルスは戦争よりも徹底して僕たちを現実に直面させる。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

March 19, 2020

【637】主催とはなにか。死者ができる仕事。

明日から「言葉の表出、春合宿2020」。今回は僕は主催ではない。主催ではないときにこういうことを書くのもどうかとは思うけれど、あまり機会がなさそうなので、書く。

主催が何をやっているのか、というのはなかなか見えにくいところなのだけど、僕なりに主催とは何かは以前考えた。

主催の仕事は二つある。

一つは、主催は出来事を引き起こす。
もう一つは、主催は出来事を引き受ける。

現実的な意味での仕事、例えば、取りまとめとか、運営とか、宣伝とかは、主催の仕事ではない。実際には兼務することが多いだろうけれど、要するに別の人でも構わない。別の仕事だ。

そういった別の仕事を取り除き、どうしても主催者がやらなくてはならないこととして残るのが上の二つだ。

別の言い方をすると、
主催は、その出来事が起こる場所である。

どんな言い方をしてもそうなのだけど、物理的に作業が発生しないので、実際にそれをどうやるのかというのは見えるものではない。ただし、その出来事に対して不可欠であり、場所としてその出来事から離れることができないから、何もしないが重労働だ。

何もしないというところをもう少し進めると、生身の人間である必要はない。例えば、宗教的な催しには、神が主催していると言っても良いようなものがあるだろうし、死者が主催している行事もあると僕は思う。

父親が死んでその葬儀をしたとき、僕は喪主という立場だった。喪主とは何か、あるいは葬儀とは何かということを通夜の一晩寝ずに考えた。葬儀場のホールで、その夜は僕と弟が父親の遺体とともにそこにいた。

明け方、要するにこの葬儀は父親のものであり、父親によって引き起こされ、どのような結果になろうとも父親はそれを引き受けるだろうと僕は結論した。喪主である僕は、その実務的運営者か、ぎりぎりまで踏み込んだとしても共催者だ。

葬儀は「残された者の悲しみを癒やすためにやるのだ。つまり葬儀は残された生者のものだ」といった心理的で実用的な解釈は、効果としてはそういう面があることは認めるけれど、僕は全くそんな風に思えなかった。

葬儀は死者が主催している。

こうして僕は「何かをやる」ということのイメージが持てるようになった。これだけでも父には感謝している。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

March 14, 2020

【629】やることをやらないとがっかりが積み上がる。

自戒編。

やることをやらないと、がっかりが積み上がっていく。何も積み上がらないのではなく、がっかりがどんどん積み上がっていく。がっかりの山に囲まれる。向こう側が見えなくなる。向こう側からも見えなくなる。

「何も積み上がってはいない」と落胆しようが、「何も積み上げてはいない」と嘯(うそぶ)こうが同じことで、実際には日々がっかりが着々と積み上がる。

やることをやる。大変なのはいつも近くだ。遠くへ行くにはまず、近くを通る。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月20日から24日:言葉の表出、春合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

March 12, 2020

【627】生涯所持個数を最小化したいタイプのミニマリスト。

自分では比較的ミニマリズムの傾向が強いと思っているつもりなのだけど、世のミニマリストたちの記事を読んでもあまりピンとこない。所持品リストなんかも、参考になるものがあるかなと思って見たりするのだけど、全然かぶらない。

だからまぁ、僕はそんなに強いミニマリズムじゃなくて弱ミニマリズムなんだと思っていたりしたのだけど、よくよく考えてみると、僕は「生涯において所持する物の数を減らしたい」というタイプのミニマリズムなのではないかと思い当たった。

逆に言うと、世のミニマリストたちは「ある瞬間の持ち物の個数」のみを問題にしている。簡単に言えば買い替えOKなのだ。iPhoneを毎年下取りに出して新品を買ったりしても「スマホ1個」とカウントする。「毎年買い換えるんなら5年で5個じゃないか」とはならない。

僕は、もうそれ一個あったら一生買わなくて済むような物で生きていたい。たとえば、鉄のフライパン。Barbourのコート。万年筆。

要するに物を買うのが嫌なのだ。

これは厳密に物を買うのが嫌なだけで、お金を払うのが嫌なわけではない。修理には喜んでお金を出す。気に入った物なら、たとえ新品が買える値段でも修理できるなら修理する。場合によっては新品以上でも払うかもしれない。

長く使え、壊れにくく、壊れても修理できるもの。

気がついてしまえば、キャラペイスのコンセプトと同じだった。できるだけそういうもので暮らしたい。

ともかく、こうやって言葉にできればやれることが広がる。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月20日から24日:言葉の表出、春合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html



March 8, 2020

【622】自分を自分でなんとかする。

自分を自分でなんとかする、ということが一番、困難で、長期間に渡って、遅く、あらゆる出来事と事物が含まれ、面白い。

自分を自分でなんとかすれば必然的に、他者や世界と関わる。それ全体をなんとかしていくことになる。

重要なのは、順序だ。

自分で自分をなんとかする。そのなかで世界が構築されていく。

世界の中に自分をどう位置づけるのか、ではない。自分の場所をなんとかすることで、自分の世界ができあがっていく。

自由は自分のことであって、世界から、他者から許諾されるものではない。むしろ自分が世界と他者を許諾していく。

自分を自分でなんとかすることで、他者との関わりはもともと自由の上にあるとわかる。

「自我」というものに貼られたレッテルは自分で剥がすしかない。それを「脱自」というのならそうだろう。なんのことはない。自分が貼ったのだ。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月20日から24日:言葉の表出、春合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

●雑誌『言語』6号まで発行
https://gengoweb.jimdofree.com/

●マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

February 17, 2020

【595】いちいち考えてできる。いちいち感じてできる。

アラタは毎朝保育園に行く。歩けるようになったので靴を履いて庭を横切って砂利の小径を進んで道路へ出る。このあたりまで10分ぐらいか。

庭の石を拾い、南天の実を採って、別の石を拾い、石を捨てて、フェンスを触り、後戻りして、石を拾い、とやって行く。目に映るものにいちいち反応して、それを確かめていく。

10メートルに10分かかる。

この速度はこの数カ月で飛躍的に上がった。歩けるようになり始めた頃は庭から出ることすら叶わなかった。歩行速度が遅いというより、目につくものが多く、そのたびに立ち止まりしゃがみこんでいた。それがだんだん減っていって、今や庭の石の99.9%は意識にのぼらない。少し前までなら10個に1個は手を伸ばしていた。

僕はとても切なくなる。成長は力強くて切ない。

こうやってアラタは今後も多くのものへの意識をフィルタリングしていく。注意を向けるべきものとそれ以外を選別していく。世界の大半は注意を向ける必要がないということを会得していく。そうして生きていきやすくなっていく。

それが大人になるということだからだ。物事をひとまとめにすることで扱いやすくしていく。「灰色の石、土、赤い石、土、土、大きな石、砂、草、違う草、尖った石、湿った土、背の高い草、木の枝・・・」が「庭」というパッケージに収まっていく。

1 フライパンをコンロにかける。
2 コンロに火をつける。
3 熱くなるまで待つ。
4 油を入れる。
5 玉子を割り入れる。
6 玉子をかき混ぜる。
7 ご飯を入れる。
8 お玉でかき混ぜながら鍋を振る。
9 塩を小さじ半分入れる。
10 刻んだネギを入れる。
11 お玉でかき混ぜながら鍋を降る。
12 皿に盛る。

が、

1 チャーハンを作る。

にまとまるように、僕たちは物事がよりできやすくなるように、パッケージ化していく。パッケージになれば、思考や感覚への負荷は格段に下がる。楽にできるようになる。チャーハンも美味しく作れるようになる。

でも、

「できる」が「考えなくてもできる」や「感じなくてもできる」ようになることを指すのではなく、「いちいち考えてできる」「いちいち感じてできる」ようなことのまま維持し続けることは理想に過ぎないのだろうか。

僕の中では、そういうことが面白さと幸せの近くにある。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月20日から24日:言葉の表出、春合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

==============
マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

「書いてみたいけどなかなか書き出せない、書きあぐねている」
「書いてみたけどこれでいいのか不安」と思う人が多いようです。
この面談では、書くことが面白くて自分で書き進めていけるように
なるまでをサポートします。1回60分から90分程度。
初回ヒアリング無料です。

【費用】
・高校生以上:1回7,000円
・小中学生 :1回5,000円
※出張の場合、出張費1,000円と交通費実費が加わります。

お問い合わせはメールで。
大谷隆 marunekodo@gmail.com

【594】早く行きたければ、みんなで行け。遠くまで行きたければ、ひとりで行け。

たしかFacebookだったと思う。最初に見たのは。こう書いてあった。

早く行きたければ、ひとりで行け。
遠くまで行きたければ、みんなで行け。
うまい言い方だなと思った(若干「良い事言ってます」的な臭さを感じるけど)。でも同時に強い違和感がある。結局、2回ほど読んで僕は全く逆の実感があると思った。

早く行きたければ、みんなで行け。
遠くまで行きたければ、ひとりで行け。
僕の実感はこっちだ。

この実感自体が、この「ことわざ」を読んで思い当たったものなので、もとのフレーズ自体を批判したいわけではない。うまい言い方だと、今でも思っている。

その上で、僕のイメージしている「遠く」というのは、どうやら遠近として比較できるような意味合いではなく「どこにあるかわからない」「どうやって行けばいいのかわからない」「だれも知らない」「だれも居ない」ようなニュアンスでの「遠く」で、比較できるものではないことに気がついた。

ずっと「遠く」、誰も居なくて僕しか居ない、そういう場所に「みんなで」行くこと自体に矛盾がある。

もとのフレーズでは、「早く」「遠く」や「遅く」「近く」は相対的な意味あいだ(当たり前だけど)。さらに、「早く」と「近く」、「遠く」と「遅く」はそもそも自明的な結びつきをもっている。また、「ゆっくりでいいなら一人でもいい」「近くまででもみんなで行っていい」という緩みをも含んでいる。

僕は明らかに誤読しているわけだが、誤読の結果、僕は僕の重要だと思っているイメージを明確にすることができる。

僕は自分しか行けないようなところに行ってみたいという憧れがあるのだろう。そして、もし可能であるならば、そこへみんなも来てほしいのだ。

言語的な矛盾なんて、そこではなんとかなるんじゃないかという楽観主義が本体で、早遅遠近はたいしたことではなかったということだろう。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月20日から24日:言葉の表出、春合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

==============
マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

「書いてみたいけどなかなか書き出せない、書きあぐねている」
「書いてみたけどこれでいいのか不安」と思う人が多いようです。
この面談では、書くことが面白くて自分で書き進めていけるように
なるまでをサポートします。1回60分から90分程度。
初回ヒアリング無料です。

【費用】
・高校生以上:1回7,000円
・小中学生 :1回5,000円
※出張の場合、出張費1,000円と交通費実費が加わります。

お問い合わせはメールで。
大谷隆 marunekodo@gmail.com

February 12, 2020

【590】自宅で合宿をしているのではなく、合宿所に棲んでいる。

まるネコ堂はよく合宿をやる。最近はあまり言われなくなったが、以前はよく「家でイベントとして人を呼んで合宿するなんて大変じゃないか」というようなことを言われた。

最近あまり言われなくなった理由は、たぶん、以前よりも僕や美緒が大変そうじゃなくやっているからだろう。そして実際、大変ではない。ある意味では、合宿をしていたほうが楽だったりするぐらいだ。

その理由は、表題にも書いたように「自宅で合宿イベントをやっているのではなく、合宿所に棲んでいる」という意識だからだと思う。

合宿に限らず、講座や各種イベントのほとんどを「自宅」でやっているように見えるが、正確に言えば、それらの催事が可能な施設に僕たち家族が棲んでいるのだ。そこに僕たち以外の人が加わって催事として成立している。

これは気の持ちようといったレベルではない。本当に僕たち家族は、言ってみれば、一年三六五日、合宿しているようなものなのだ。そこへ時々、僕たち以外の人が加わって、合宿の遂行人員が一時的に増えているだけ。人が増えれば合宿に必要な作業負担が分散化するので、その分楽になりさえするというふうに。

言い方を変えると「合宿という非日常を(頑張って)やる」のではなく「日常生活の方を合宿にしている」のだ。

もともと僕は、「マイホーム」「我が家」といった言葉が内包している安らぎや帰る場所といった意味合いを「家」というものにあまり感じていなかった。僕の安全が確保される場所という意味では「家」にそれほど特権的な位置はない。低コストではあるが、他にも選択肢はある。学生時代は、週末ごとにアパートを抜け出して近所の河原で車上泊をしたりしていた。

僕がまるネコ堂の設備を整えるのは、合宿所の機能向上として有意義だと思うからだ。優れた合宿所は、僕の生存を継続しやすくなるという意味合いにおいて重要で、僕の生存が維持しやすいことと、僕以外の人の生存が維持しやすいことにそれほど大きな違いがあるとは思っていない。

なんらかの理由でこの場所を立ち去ることになれば、また別の場所で、その場所に適応した合宿所を作ろうとするだろう。

「僕が生きる」ことと「僕が生存する」ことには違いがあるのだけれど、いずれにせよ「家」という概念で語られるものの中軸にある「生活の中心性」が必須に組み入れられるほどの強度を持っていない。僕がもっと若く独身であったら、格安のホテル暮らしとかAirbnbを駆使したりしている気がする。所有したくないという欲求に素直に従っただろうからだ。

それは僕が今、車を持ちたいと思わず、積極的にタクシーを使うのと同じぐらいの意味合いで、そうなる。車が持つ程度の「移動の自主所有性」が「僕が生きる」ことにも「僕が生存する」ことにもそれほど影響を与えないように、家が持つ程度の「生活の中心性」が影響を与えないのだろう。

その割に、僕も美緒もほとんどまるネコ堂から出ることなく生活しているのは、それぐらい合宿所として高レベルに有用だということだと思う。とても使いやすい。少なくとも生存はたやすく継続でき、それぞれの合宿者が合宿所においてやりたいと思うことはもうだいたい実現している。



===============
■近々開催のまるネコ堂の催し
===============

●3月20日から24日:言葉の表出、春合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020.html

●7月28日から8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
https://mio-aqui.blogspot.com/2020/01/2020_28.html

●3月29日(日):山本明日香レクチャー・コンサート
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_24.html

●定期:文章筋トレ
隔週の水曜午前、月一土曜午後
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html

●9月まで月一回:『中動態の世界』ゼミ(全9回)
https://marunekodosemi.blogspot.com/2019/12/32.html

●月曜午後のzoomカフェ
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/zoom-httpszoom.html

==============
マンツーマンの文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html

「書いてみたいけどなかなか書き出せない、書きあぐねている」
「書いてみたけどこれでいいのか不安」と思う人が多いようです。
この面談では、書くことが面白くて自分で書き進めていけるように
なるまでをサポートします。1回60分から90分程度。
初回ヒアリング無料です。

【費用】
・高校生以上:1回7,000円
・小中学生 :1回5,000円
※出張の場合、出張費1,000円と交通費実費が加わります。

お問い合わせはメールで。
大谷隆 marunekodo@gmail.com

ブログ