何人かの人には直接言われたことがあるので、疑う理由もないが、僕のブログを読んでから、その後で直接僕に会った人はだいたい「もっと年寄りだと思っていた」という感想を持つ。
書いている方は特段年寄りっぽく書いているわけではないけれど、そのように読めるのだからそうなのだろう。こういうことに対して特に悲しいとかショックだとか納得がいかないとか、そういったことは思ってはいないけれど、少し分析してみると面白いことがわかるかもしれない。
一つあるのは、僕の文章の特徴として、まず逆方向に文脈を振ってフェイントを入れてから回り込んでくるという文脈のライン取りの癖がある。これを、ある種の老獪さと言えば聞こえはいいけど、辛気臭さというか、説教臭さというか、そういうのにも近いかもしれない。
具体的に言えば、「書いている方は特段年寄りっぽく」の「特段」と「っぽく」という小さなアクションで、行きたい方向とは逆側というか外側に、文章の重心を振る。次に、この外側に重心がかかっている状態を、「わけではないけれど」の「わけでは」と「けれど」でグリップさせて、内側に方向を変えていく。こうやって、一旦曲がろうとする方向と逆側にふってから、本当に曲がりたい方向へ曲がるという手間をかけている。これは、文章の荷重移動で、車の操舵と同じように、一見無駄な動作のように見えて、実はスムーズに曲るためには効果的なやり方だ。
こうやって書くと、複雑な、あるいは高度なテクニックを駆使しているようにみえるかもしれないけれど、そうではなく、これは会話などでは頻繁に見られる「謙遜」や「謙譲」と同じありふれたものなのだ。謙遜や謙譲によって、話の筋がつかみやすくなるように。
謙遜や謙譲が適度に効いている文章だから、きっとそれはある程度の分別を持った人だろうという予測を生み出す。それに加えて、抑揚の抑えられた文体が(これはブログを書くときの僕の心的な状況を反映しているのかもしれない)合わさって、年寄りくささが出ているのだと思う。
テクニック的なものは大体そうなのだけど、やりすぎると鬱陶しい。やりすぎなくても、先を読まなくてもある程度気分的な予測がついてしまう文章になってしまうわけで、つまらない文章になりがちだ。「わかりやすい文章」を目的にして突き詰めることの弊害である。
あとはまぁ、こんな分析を自分で自分の文章に対してやるような暇な有り様が、年寄り臭さの最大の要素かもしれない。
たしかにいつものんびりはしている。
書いている方は特段年寄りっぽく書いているわけではないけれど、そのように読めるのだからそうなのだろう。こういうことに対して特に悲しいとかショックだとか納得がいかないとか、そういったことは思ってはいないけれど、少し分析してみると面白いことがわかるかもしれない。
一つあるのは、僕の文章の特徴として、まず逆方向に文脈を振ってフェイントを入れてから回り込んでくるという文脈のライン取りの癖がある。これを、ある種の老獪さと言えば聞こえはいいけど、辛気臭さというか、説教臭さというか、そういうのにも近いかもしれない。
具体的に言えば、「書いている方は特段年寄りっぽく」の「特段」と「っぽく」という小さなアクションで、行きたい方向とは逆側というか外側に、文章の重心を振る。次に、この外側に重心がかかっている状態を、「わけではないけれど」の「わけでは」と「けれど」でグリップさせて、内側に方向を変えていく。こうやって、一旦曲がろうとする方向と逆側にふってから、本当に曲がりたい方向へ曲がるという手間をかけている。これは、文章の荷重移動で、車の操舵と同じように、一見無駄な動作のように見えて、実はスムーズに曲るためには効果的なやり方だ。
こうやって書くと、複雑な、あるいは高度なテクニックを駆使しているようにみえるかもしれないけれど、そうではなく、これは会話などでは頻繁に見られる「謙遜」や「謙譲」と同じありふれたものなのだ。謙遜や謙譲によって、話の筋がつかみやすくなるように。
謙遜や謙譲が適度に効いている文章だから、きっとそれはある程度の分別を持った人だろうという予測を生み出す。それに加えて、抑揚の抑えられた文体が(これはブログを書くときの僕の心的な状況を反映しているのかもしれない)合わさって、年寄りくささが出ているのだと思う。
テクニック的なものは大体そうなのだけど、やりすぎると鬱陶しい。やりすぎなくても、先を読まなくてもある程度気分的な予測がついてしまう文章になってしまうわけで、つまらない文章になりがちだ。「わかりやすい文章」を目的にして突き詰めることの弊害である。
あとはまぁ、こんな分析を自分で自分の文章に対してやるような暇な有り様が、年寄り臭さの最大の要素かもしれない。
たしかにいつものんびりはしている。