May 23, 2019

【570】年寄りだと思われている。

何人かの人には直接言われたことがあるので、疑う理由もないが、僕のブログを読んでから、その後で直接僕に会った人はだいたい「もっと年寄りだと思っていた」という感想を持つ。

書いている方は特段年寄りっぽく書いているわけではないけれど、そのように読めるのだからそうなのだろう。こういうことに対して特に悲しいとかショックだとか納得がいかないとか、そういったことは思ってはいないけれど、少し分析してみると面白いことがわかるかもしれない。

一つあるのは、僕の文章の特徴として、まず逆方向に文脈を振ってフェイントを入れてから回り込んでくるという文脈のライン取りの癖がある。これを、ある種の老獪さと言えば聞こえはいいけど、辛気臭さというか、説教臭さというか、そういうのにも近いかもしれない。

具体的に言えば、「書いている方は特段年寄りっぽく」の「特段」と「っぽく」という小さなアクションで、行きたい方向とは逆側というか外側に、文章の重心を振る。次に、この外側に重心がかかっている状態を、「わけではないけれど」の「わけでは」と「けれど」でグリップさせて、内側に方向を変えていく。こうやって、一旦曲がろうとする方向と逆側にふってから、本当に曲がりたい方向へ曲がるという手間をかけている。これは、文章の荷重移動で、車の操舵と同じように、一見無駄な動作のように見えて、実はスムーズに曲るためには効果的なやり方だ。

こうやって書くと、複雑な、あるいは高度なテクニックを駆使しているようにみえるかもしれないけれど、そうではなく、これは会話などでは頻繁に見られる「謙遜」や「謙譲」と同じありふれたものなのだ。謙遜や謙譲によって、話の筋がつかみやすくなるように。

謙遜や謙譲が適度に効いている文章だから、きっとそれはある程度の分別を持った人だろうという予測を生み出す。それに加えて、抑揚の抑えられた文体が(これはブログを書くときの僕の心的な状況を反映しているのかもしれない)合わさって、年寄りくささが出ているのだと思う。

テクニック的なものは大体そうなのだけど、やりすぎると鬱陶しい。やりすぎなくても、先を読まなくてもある程度気分的な予測がついてしまう文章になってしまうわけで、つまらない文章になりがちだ。「わかりやすい文章」を目的にして突き詰めることの弊害である。

あとはまぁ、こんな分析を自分で自分の文章に対してやるような暇な有り様が、年寄り臭さの最大の要素かもしれない。

たしかにいつものんびりはしている。

May 17, 2019

【569】誰かわからないけれど、その人のおかげで。

ブログの閲覧解析を見ていると、あまり見覚えのないタイトルのエントリーが閲覧されていて、自分でもそんなの書いたっけな? と思ってそのエントリーを見てみた。

【039】思いつきではなく、ずっと昔からそこにあった

素敵な文章でほとんど感動してしまった。自分で書いたのに。

つい最近も同じようなことを考えてた。たぶん、ずっと同じようなことを考えている。

どなたかわからないけれど、ひょっとするとスパムとか悪意のあるロボット(?)かもしれないけど、このエントリーを見てくれて、僕が書いた文章を僕に気づかせてくれて、ありがとう。

May 16, 2019

【568】「やわらかく、甘みがあって、わかりやすい」言葉の奴隷。

文章を読んでそれが良い文章だった場合に褒め言葉として「わかりやすい」というのをよくきく。僕はわりと長くこの言葉を文字通りの意味にとっていた。僕にとって「わかりやすい」文章は直ちに優れた文章を意味しないので、優れているかどうかはともかくとして「理解しやすい」「イメージしやすい」という意味だと思っていた。

しかし、どうやらそういうことではなさそうだと思い当たるようになってくる。というのも、この「わかりやすい」という褒め言葉をものすごく多くの人から、多くの場面で聞くようになるからだ。その文章にとってわかりやすいかどうかは二の次だと思うような文章についても、感想といえば「わかりやすい」ということが第一に上がってくる。そういうことがしばしばあると流石に何かを疑わざるを得ない。

世の中には必ずしもわかりやすくはないが優れた文章というものはあるのだけれど、というような話をしようとするとだいたい空振りに終わる。

「わかりやすい」というのは「よかった」という程度の曖昧さであてがわれているのだ。

同じような感覚は、食べ物について「やわらかい」という感想を聞くときで、これも要するに美味しかったという程度の曖昧さで「やわらかい」と褒めているように思える。「やわらかい」と同程度に頻出するのが「甘みがある」なのだけど、こちらも同様。

というわけで、ここで蒸し返そう。

文章にとって「わかりやすい」ことは確かに一つの重要な要素ではあるが、それ以上にその文章にとってもっと重要な何かがあるのではないか。そういうことをどうにかして言おうとする意識の努力を怠ってしまうことの弊害は実はとても大きいのだ。

面白いけどわかりにくいものはたくさんある。当たり前である。わかりやすいけど、面白くもなんともないものもたくさんある。当たり前である。

食べ物にとって「やわらかい」ことは確かに一つの、もうこの辺にしておく。いずれにせよ、こういう語彙の貧弱さはいずれ致命傷になる。

文章というものに対する自己、食べ物に対する自己にとって、言葉は逆流を始める。何か漠然とよかったと思った文章に対して「わかりやすい」という形容詞を安易にあてはめてしまっているうちに、つまりその形容詞の圧力が低下していくことで、「わかりやすくない」文章はよくない文章だという逆立ちを生じるようになっていく。「やわらかくない」「甘みがない」食べ物に対しても同様だ。こうなってしまえばもう、感性や味覚は言葉の奴隷となる。正確には言葉が持つ共通性の奴隷になる。言葉は死神の持つ鎌のような切れ味で人の意識を切り刻む。人は意識を失う。残るのは共通性に反射する肉体だけだ。共通性の刺激を求めて麻薬中毒者のようにさまよい続けることになる。言葉の半面は、そのように作用する。

文章も食べ物も、それにピッタリとくる語彙がある。いや、ピッタリとはこなくても、なるべく近くの語彙を探しに行こうとするかしないかで、以後じわじわとフィードバックがかかっていく。こういうことは実は重要なことだ。奴隷の立場を望むのでなければ。

【567】旅にはスマートフォンを。

先週の土曜日から四日間、秋田へ行っていた。おばあちゃんの葬儀に出るため。秋田のというか「能代のおばあちゃん」についてはそのうち何かを書くかもしれないが、今日は脱スマートフォン計画。

移動中の連絡手段や情報入手手段としてスマートフォンは非常に役に立った。自宅に残る澪とのやりとり、天気の確認、地図など。当たり前すぎるけれど、こういうときにこそスマートフォンは真価を発揮する。とはいえ、なければないで、まあなんとかなっただろうけれど。今の日本国内の旅は、よっぽどのことがない限りは、だいたいなんとかなる。スマートフォンが活躍する余地は、リスク管理にとどまるが、その範囲においては他に置き換えにくい。

つまり、日常的な世界においては、スマートフォンが活躍する場面は実はそんなに多くはない。なければ困るといったレベルで、スマートフォンが活躍するのは非日常的な世界、例えば旅とか。いやむしろ、旅ぐらいじゃないか。旅とスマートフォンの相性は非常に高い。スマートフォン一つで多くのリスクを回避できる。逆に言えば、スマートフォン無しの旅は現代社会においてはもうすでに失われてしまった冒険を手軽に提供してくれるかもしれない。スマートフォンが活躍してくれる場面がはっきりしたおかげで、活躍しない場面もはっきりしてきた。

やっぱり、普段はいらないと思う、これ。

旅行のときだけレンタルとか、そういうサービスがあれば、僕の用途では十分な気がしてきた。

あるいは、すでに幾ばくかはそのような様相を呈しつつあるのだけれど、日常こそを完全に旅にしてしまえばスマートフォンを頼もしい相棒として再確認できるかもしれない。そうやって逆に、スマートフォンを残して、日常の方をごそっと変えてしまうという手もある。

May 9, 2019

【566】据え置き型スマートフォン。

脱スマートフォン計画、まずやってみているのは、スマートフォンを据え置きにすることだ。何を言っているのかわからないと思う。

スマートフォンを一階の本棚に置きっぱなしにして、そこに置いたまま使うようにしている。例えば、キッチンタイマーとして、例えば家計簿の入力機器として、例えばカレンダーの確認に、例えばmessengerのやり取りに。棚に置いたままでやっている。

要するにスマートフォンからモバイル性を奪うということをしている。これでもう、ほとんど息の根は止まっている。同じ部屋にある、こちらも据え置きになっているMacBook Airと、ほぼほぼ用途は同じである。

ちょっと予定を確認する、短いメッセージを入力する、などの場合はスマートフォンを、長文を入力する場合はMacBook Airを操作する。写真を撮る場合は、さすがにスマートフォンを手に持って移動する。

こんなことを数日ほどやってみている。ネットへの依存度も同時に下がっていっている。どうなることやら。

May 7, 2019

【565】脱スマートフォン計画を始める。

長い道のりになるだろう。行きつ戻りつするだろう。でもたぶん、辿り着けそうだと踏んだ。スマートフォンを使わない生活へ向かおうと思う。

単純に、もう、スマートフォンが美しくないと思うようになったからだ。それは実は、初期の頃のiPhoneのを見たときに通じていて、

「それで電話するの? まじで?」というあの醜さの感覚だと思う。

現在のスマートフォンは、たしかにもう、指を大きく広げて鷲掴みしながら耳に押し付けて電話することは、少ない。僕はほぼそのような使い方では使っていない。しかし、なのだとしたら余計に、いらないのではないか。これそのものが。

現在地を示しておこう。

スマートフォンの実質的な主要用途はSNSである。だから、脱スマートフォンの成否は最終的にはSNSとの距離のとり方にかかっている、と予測する。

僕が今使っているSNSはフェイスブックのみ。ほぼイベント案内がメイン。イベントを案内するために、何かしらの広報ツールは必要だということで、最終的にフェイスブックが残ったという状態だ。といっても「友達」の数はそんなに多くもなく、僕のアカウントがもつ影響力は大きくない。たぶん、僕自身が一所懸命投稿したり、シェアしたりしても、大した効果は見込めない。僕じゃない人がちゃらっとやったほうがはるかに効果的である。

だとしたら、僕のやるべきことは、僕じゃない人が僕について投稿したり、シェアしたりしてくれるようなことだ。そこに注力すべきだ。もし、それによって何かしらの効果を得たいのであれば。

ということで、まぁたぶん、スマートフォンはなくても、なんとかなるんじゃないかと思っている。

もちろん、直接的な連絡手段はSNSよりもずっと「必須」だから、その代替手段を確保する必要があるのだけど、それについても探求していこうと思っている。

ともかく開始ということで。