文章を読んでそれが良い文章だった場合に褒め言葉として「わかりやすい」というのをよくきく。僕はわりと長くこの言葉を文字通りの意味にとっていた。僕にとって「わかりやすい」文章は直ちに優れた文章を意味しないので、優れているかどうかはともかくとして「理解しやすい」「イメージしやすい」という意味だと思っていた。
しかし、どうやらそういうことではなさそうだと思い当たるようになってくる。というのも、この「わかりやすい」という褒め言葉をものすごく多くの人から、多くの場面で聞くようになるからだ。その文章にとってわかりやすいかどうかは二の次だと思うような文章についても、感想といえば「わかりやすい」ということが第一に上がってくる。そういうことがしばしばあると流石に何かを疑わざるを得ない。
世の中には必ずしもわかりやすくはないが優れた文章というものはあるのだけれど、というような話をしようとするとだいたい空振りに終わる。
「わかりやすい」というのは「よかった」という程度の曖昧さであてがわれているのだ。
同じような感覚は、食べ物について「やわらかい」という感想を聞くときで、これも要するに美味しかったという程度の曖昧さで「やわらかい」と褒めているように思える。「やわらかい」と同程度に頻出するのが「甘みがある」なのだけど、こちらも同様。
というわけで、ここで蒸し返そう。
文章にとって「わかりやすい」ことは確かに一つの重要な要素ではあるが、それ以上にその文章にとってもっと重要な何かがあるのではないか。そういうことをどうにかして言おうとする意識の努力を怠ってしまうことの弊害は実はとても大きいのだ。
面白いけどわかりにくいものはたくさんある。当たり前である。わかりやすいけど、面白くもなんともないものもたくさんある。当たり前である。
食べ物にとって「やわらかい」ことは確かに一つの、もうこの辺にしておく。いずれにせよ、こういう語彙の貧弱さはいずれ致命傷になる。
文章というものに対する自己、食べ物に対する自己にとって、言葉は逆流を始める。何か漠然とよかったと思った文章に対して「わかりやすい」という形容詞を安易にあてはめてしまっているうちに、つまりその形容詞の圧力が低下していくことで、「わかりやすくない」文章はよくない文章だという逆立ちを生じるようになっていく。「やわらかくない」「甘みがない」食べ物に対しても同様だ。こうなってしまえばもう、感性や味覚は言葉の奴隷となる。正確には言葉が持つ共通性の奴隷になる。言葉は死神の持つ鎌のような切れ味で人の意識を切り刻む。人は意識を失う。残るのは共通性に反射する肉体だけだ。共通性の刺激を求めて麻薬中毒者のようにさまよい続けることになる。言葉の半面は、そのように作用する。
文章も食べ物も、それにピッタリとくる語彙がある。いや、ピッタリとはこなくても、なるべく近くの語彙を探しに行こうとするかしないかで、以後じわじわとフィードバックがかかっていく。こういうことは実は重要なことだ。奴隷の立場を望むのでなければ。