今日のレクチャーコンサートは、第3回目でシューベルト。レクチャーコンサートは毎回僕にとって、ちょっと不思議な事が起こるのだけど、今回も二つほど起こる。
一つ目、「これは、いよいよ僕にも楽譜が読めるようになるかもしれない」。
僕は楽器は全く演奏できないし、歌もだめ。もちろん楽譜も読めない。それなのに、明日香の演奏に合わせて、演奏されている箇所を目で追うことができた。前回のベートーヴェンのときも少し「あ、今このへんかな」と言うレベルではわかってはいたのだけど、今回はほぼ全部、それも音符単位の解像度で追いかけることができた。その上、不協和音のときにちょっと変な感じの音符の並びになることとか、斜面を駆け上がるように配置された音符がその直後、壁っぽく縦に並んだ和音にぶつかるときに、壁に激突したっぽい音がなることとか、そういうことが聴くのと読むのとの混合でわかるようになってきた。
相変わらず、五線譜の何番目の線に丸があるときに、この音がでるといった読み方はできないけれど、譜面全体の流れは追えて、一度ロストしても、もう一度戻って来れるという安心感を持って楽譜を見ていられるようになった。これはとても大きいことだと自分では思う。
これを続けていたら本当に楽譜を読めるようになるかもしれない。楽器が演奏できないのに楽譜が読めるようになるなんて、果たしてそんな不思議なことが起こるのだろうかと明日香にきいてみたらあっさり「指揮者とか、そうだよ」。なるほど、音楽って広い。そういえば指揮者って、どんな「練習」をするんだろう。
二つ目の不思議なことは、ちょっと説明が難しいのだけれど、「音楽は音を聴いているというだけではないことが起こる」。
音楽って音を聞いてその、外的な刺激としての音によって、心とか情緒とかが受動的に反応しているというふうに思っていたのですが、どうやらそういうことではないこと「も」起こっている。
明日香はよく「ここからピアニッシモの世界に入ります」とか「シューベルトの世界観はこうではない」とか、「世界」を語るのだけれど、こういう「世界」は、音楽を聴いている人に生じている聴覚的な反応に対するある種の比喩だと思っていた。でも、そういうことではなく、音はその時、どちらかというと、入り口やガイドとしてあって、それに導かれて、僕がそこへ自主的に入っていくことができるような「世界」が出現することがある。
その世界に入ってしまうと、音は感覚的に聴くというものではなくて、音によって出現した(構築された)「世界」での様々な出来事を、聴覚以外を含んで、自主的に体験することになる。これは僕にとっては、文章を読んでいるときに、とても似ているのだけれど、こういうふうに音楽を聴いたことが僕はこれまでなかった。
楽しい曲を聴くと楽しくなる、悲しい曲を聴くと悲しくなるという反射的なレベルではなくて、その曲を聴くとその曲の世界に存在して、アレコレいろんな出来事が起こる、という音楽。
なるほどこういうことが、音楽が多くの人を魅了する理由なのかもしれない。少なくとも音楽に人生をかけてしまうような人が現れる理由なのだと思う。ようやく僕はそこに触れた気がする。
三回目はこの辺まで。次回は一体なにが起こるんだろう。
次回は11月24日。
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