September 5, 2019

【596】褒めることは他人の努力の搾取なのではないか。

子育てをするとそれ以前と比べて格段に増えることがある。褒めることと叱ることだ。乳児の場合は特に、褒めることが多くなる。叱ることはあまりない。

それまでできなかったことができるようになったとき、その人を僕たちは褒める。褒められた方は嬉しくなる。一般に、褒めてくれた人に対して好意すら持つだろう。ここに何ら「悪」は介在していないように見える。

けれど、最近、ちょっと違うことを考えるようになった。

何らかの努力を重ねて困難に立ち向かいそれを克服した人がいたとして、それを褒めることで、その人から良い印象を得るということに、なんとなく居心地の悪い思いをすることがある。なぜなら、褒める側は何らの努力を必要としないからだ。何も努力をしていない、なんら苦労していない、それにもかかわらず、なんらかの好意を得てしまうということに、僕は無頓着でいられない気分になる。また、こういうメカニズムとも言えない単純な仕組みを知った上で、人間関係上の優位性を得る目的で積極的に他人を褒めているのではないかと疑われる場面に遭遇すると、僕は気分が悪くなる。

単に、僕がひねくれているのかもしれない。どうかしているのかもしれない。

でも、何かを得るために苦労を重ねた人に対する〈敬意〉の表明と「褒める」という態度の表明とは、似て非なる実体を持っている可能性があるのではないか。一見するとその違いはわかりにくいかもしれないけれど、見かけ上わかりにくいだけで、実体としては全く異なるものなのではないか。その異なる実体によって放たれている臭気のために、僕は気分が悪くなっているのではないか。

子供が毎日少しずつ反復練習して、何かができるようになったときの喜びは、単に子供の努力を褒めているものではなくて、それを長期間見守り続けた親として、自分のこととして嬉しい。こういうときに発生しているものと、他人との関係を良好にする〈ために〉他人の努力の成果をかすめ取るように「褒める」ことは確実に異なる。

ともかくこれぐらいは言える。他人を褒めることにおいて、同時に自分に起こっていることは、外してはいけない要素である。



Share: