May 30, 2022

【830】家で芸術祭をやる理由。

 まるネコ堂と称している自宅で芸術祭をやっています。他にも、合宿や講座などの催しもやっています。さらに、「キャラペイス」という名前でやっている革製品の製造販売も同じ空間を工房として使ってやっています。最近では庭で畑もはじめました。

 こうやっていろんなことを自宅でやっていることの理由はいくつかあります。そのうちでおそらくこれが一番大きいと思うのは、この場所の隅々まで生きている状態にしたいということかなと思います。

 芸術祭にしろ合宿や講座、工房も、そのいずれに対しても「何かをやるための場所」という意味では必ずしも自宅が最適なわけではありません。それぞれに適した場所があって、それを探してそこでやるほうが効率的だったり効果的だったりします。この事自体は、その通りだと思っています。

 言い換えれば、なにかやりたい目的化された対象が予めあって、それを実現するための道具として「自宅」を選んでいるわけでは、必ずしもありません。そうではなく、あるいは、そうでありつつもむしろ、この家やこの場所が活性している状態である、その状態を好ましいと思っていて、それによってやりたいことが派生していっているということになります。

 もちろん「目的があって手段を選ぶ」という順序で物事を行うという意識もあるのですが、それだけではなく、その「目的」やそれ以前の「何かをやりたい」という意欲が生み出されてくる土台としての場所をやっている感じです。

 そのために、家でやることは何でも良いわけではなく、これがやりたいと心から思えることである必要があって、そうでないと「隅々まで生きている」という感じにはなりません。「やりたさ」が含み込んでいる爪の先まで行き渡っていく「貪欲な繊細さ」が重要なのです。

 基本的にいつも感じていることとして、この家は僕たち家族が現代的な日常生活を送るためだけには、大きすぎるし広すぎます。ごく普通の古い建売の一軒家なのですが、そもそも家や場所というものの潜在的な力(可能性)は「こんなものではないはずだ」という気がするのです。

 この家とこの場所のもともとの力を発揮したいし、発揮できる状態にしておきたいと思っています。これが今のところ言葉になる、僕が自宅でいろいろやることの理由です。

 こうやって言葉にすることで、ここから先が見えてくるのですが、この家やこの場所を活性させるために、家にこもっているだけのほうがいいのかというと、たぶんそうではなく、外に出ることで家に呼び込むようなこともしたほうがいい気もしてきます。そういうフェイズもあるだろうなと思っています。



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