まるネコ堂ゼミでメルロ・ポンティの『知覚の現象学』を読んでいるのですが、面白いです。まだ第一部の半ばなのですが、この本を読んで、本好きならおそらく思い当たるであろう現象が少し説明できるのではないかと思ったので、やってみます。
本屋さんで本棚を見ていると、著者もタイトルも初見にも関わらず、この本は絶対に面白いと思えることがあります。そして、その本を買って帰って読むと、必ず面白い。
「本に呼ばれる」「本が自分から手の中に飛び込んでくる」「その本だけ浮かび上がって見える」といったような言われ方も聞いたことがあります。
オカルトめいた話ですが、これを「知覚するとはそもそもどういうことか」について論じたメルロ・ポンティをヒントにすると、こんなふうに説明できるのではないかと思います。
まず、オカルトめいて聞こえる理由を改めて記述します。
該当する「その本」という対象に関する情報がタイトルと著者名しかない。強いて言えば、ブックデザイン、表紙デザインといったものも入れても良いかもしれませんが、いずれにせよ、極めて少ない情報から、本の内容を予め読み取っているかのように聞こえるからだと思います。
しかし、実は、この状況そのものの捉え方自体に「見落とし」があります。
現象としてもう少し詳しくこの状況を記述すると、
- その本屋にいる。
- その棚の前にいる。
- その棚の他の本が見える。
と、こうやってすでに該当本に辿り着く前に多くのものを得ています。例えば、
- その本屋がどのような品揃えの傾向なのかをある程度知っている。
- その棚がどのようなジャンルの棚か知っている。
- その棚に並んだ本のうちいくつかは読んだことがあるか、内容を知っている。
こうして「その本」にたどり着きます。そして何らかの意識の契機によって、それまで漠然としていた本の並び、棚の配置などが「背景」となり、「その本」が「対象」となります。
この「対象」と「背景」の構造自体をその時に「僕」が作り出します。
言い換えれば、このときに「僕」に起こっている現象は、対象である「その本」に関する諸情報の入手だけではなく、その背景としての、店、棚、他の本などの多くの情報と、さらに僕自身の過去の読書歴とが交錯した大きな雲のような「本に関するネットワーク」のようなものがうごめいているものを含んだ、対象と背景を含んだ構造自体を作り出しているということになるからです。
「見落とし」がちな点は「背景」というものそのものです。この背景は、対象である「その本」ほど意識的に見ているわけではなく、それこそ、絵の背景のように「目に入って」いるだけだったり、無意識的な探査を向けられる記憶でしかありません。そのため、背景は意識上には明瞭に捉えられていません。僕の意識はただ、「その本」がその他から区別された特別さを持って現れたかのように捉えます。意識や背景とは、そもそもそのようなものだからです。
簡単に言えば、対象となる本のタイトルと著者名といった僅かな情報から内容を得ているわけではなく、実は、僕の読書歴、読書傾向や好みといった大きな意味での読書経験の大半とその本が置かれた店や棚の状況すべてから、その本を「僕が意識に切り出して」きています。たとえ僅かな情報であろうとも、それがその本屋のその棚のその並びにあることを顧みれば、十分に「僕にとっての面白さ」の判断が可能になるというわけです。
これで、だいたい説明できる気がします。
しかし、それでもまだ説明し足りない領域があって、それはもう少し原理的なものです。
そもそも僕がどういうことを「面白い」と思うか、ということ自体の「可変性」のようなものを説明しなくてはいけないはずです。
簡単にいえば、僕にとっての「その本の面白さ」というのは、「その本」を読む前の僕が完全に規定できるものではなく、「その本」を読むことで変化してしまった僕によって事後的に「面白かった」と振り返られるものであるような気がするからです。この辺はもう少しうまく書けるようになったら、書いてみたいと思います。
いずれにしても、メルロ・ポンティの『知覚の現象学』の範疇のように僕は思っています。
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現在、以下のゼミが進行中です。途中参加可能です。
・メルロ・ポンティ『知覚の現象学』
・スピノザ『エチカ』