April 22, 2025

表現研究会第4クールのレジュメ

表現研究会で大谷隆が発表したレジュメです。

「junaidaの絵本とゲーム」

2025-04-14 大谷隆

junaidaとは

画家。1978年生まれ。Hedgehog Books代表。京都在住。

知ったきっかけ

僕がjunaidaさんを知ったのは2024年。ロームシアター京都の蔦屋書店で「IMAGINARIUM」の表紙が目についた。この本は間違いないという「あの感じ」があったので、その場で買おうと思ったが、絵本がいくつかあるようなのでそちらも調べてからと思って家に帰り、まず「怪物園」を注文。アラタも葉ちゃんも気に入ってくれた。それから積極的に集めはじめる。画家というよりも絵本作家として。

持っている本のリスト

  • 怪物園」2020 装幀:祖父江慎+藤井遥(cozfish)
  • 街どろぼう」2021 装幀:祖父江慎+藤井遥(cozfish)
  • Michi」2018 装幀:Hal Udell
  • 世界」2024 装幀:祖父江慎+藤井遥(cozfish)
  • IMAGINARIUM」2022 装幀:祖父江慎+藤井遥(cozfish)
  • 」2019 装幀:祖父江慎+藤井遥(cozfish)

奥付めくればcozfish。

遊ぶ(プレイングな)絵本

美しい絵であるだけでなく、アイデアがあって、面白い絵。画から離れたところから「見る」「眺める」という視覚的なものというよりは、絵の世界に入って体験する感じがあるのがとても良い。絵の世界で遊ぶ(play)ことができる。

主題が画面の真ん中にあって、そこに視線が集中するといった、消失点のある透視図法的な画面の構図は少なく(そのような絵もあるが)、画面全体のあらゆるところに、何かが息づいていて、絵の中に潜入することで、意識の周囲に絵の内部世界が立ち上がって、そこに滞在することができる。全体を見通すことができず、視界は部分に限定される。物陰が重要。曲がり角の向こうがある。

好きな点の1つ目として、登場人物への〈感情移入〉に頼らずに、表現された世界への〈潜入体験〉を実現していること。むしろ、登場人物の感情表現は、かなり控えられている。それでも〈潜れる〉。このあたりに「現代的な絵本」を感じる。登場人物への感情の〈同化〉とは異なる方向で「ドラマ」を生んでいるように思う。

感情の移入や同化によって臨場感を出そうとすると、「子供向け」のものはどうしても啓発的・教育的になることが多い(大人向けだと露悪的な方向もあるが)。その点でもjunaidaさんの作品は、「正しさ優位」にならざるを得ない「教育啓発」的雰囲気とは違っていて、非生産的な「単なる遊び」の領域にとどまる。善悪基準から自由なところで面白さを実現している。

好きな2つ目。絵本は普通、「絵と文」という構成要素で捉えられる。別の言い方だと「視覚と言語」。でもjunaidaさんの絵本はそのような二分法で捉えるものというより、それより上位にもっと能動的な体験があるように思える。だから、文章がどうこうとか絵がどうこうというだけではすくいきれない魅力がある。

この上位の魅力は、もう少し突っ込んで言うとすれば、ゲーム的な面白さだと思う。ゲームは「視覚や聴覚や言語的なメディア」という言い方よりもまず「積極的なプレイ体験」として意味がある。自分自身が主人公として行動することでそれを実現している。

junaidaさん自身がゲーム好きだったりゲームを意識していたりするのかは不明だが(検索しても出てこなかった)、そういったゲーム的な能動性を誘発する感じがある。ゲームの面白さと似た面白さがある。

「ほぼ日」のjunaidaさんのインタビュー

junaida 僕の場合は、僕の絵を見て空想してもらえたら、うれしいですね。 

junaida その絵の直前直後の場面、このキャラクターはどこから来たのか、これからどこへ行くのか、いったい、どんな性格してるんだろう、こっちのふたりは友だちかな、恋人どうしなのかな‥‥。そういう、絵の前後左右を自由に想像できる余白みたいなことを、つねに意識して描いているので。 

(インタビュアー) お客さんって、そういうことを絵の前で、話してたりするんですか? 

junaida してますよ、たまに。友だちどうしで来てくれたりすると。そんな場面に遭遇すると「あ、遊んでもらえてるなあ」って。

ほんとうにjunaidaさんの絵本は遊びたくなる。「物語の世界に誘われる、ひたる」というよりもさらに一歩進んだ「そこで遊んでなんぼ」感が強い。

持っている作品のゲーム的だと感じる側面

「怪物園」

文字通りロールプレイングゲームのモンスターのよう。ポケモンだったり、古くは「ドラゴンクエスト」の鳥山明のキャラクターデザインも想起する。それぞれの怪物の背景に「設定がある」感じ。横顔、正面などがあって、一つ一つが考えられていて、そのようなモノとしての存在感がある。

「みち」

アイソメトリックな視点で消失点が無い。ゲーム用語的には「見下ろし型2D視点」。迷路のような道を指でたどっていく。ものすごく原初的な「道を進んでいく楽しさ」がある。ゲームのマップ画面のよう。幼児期の記憶として残っている「未知の道」「曲がり角の向こう」「階段の向こう」のワクワクがある。進むだけで楽しい。階段があって高低差があったりするのも楽しい。テキストなしだけど、ストーリーもある。

「世界」

これもテキストはないが、明確にストーリーがある。生まれたばかりの主人公が育っていってあらゆるものと出会い、やがておじいさんになる。自分が世界をそのようなものとして捉えていく。

「の」

junaidaさんのアイデアは、誰も思いつかない斬新なアイデア、というよりもむしろ、誰しもが子供の頃に一度は冗談や遊びとして思い浮かぶような、「普遍的なアイデア」。それを高いレベルで実現している。緻密で過剰な表現力と想像力。

ゲームの話

で、今年はゲームの話をなるべくしていこうと思っています。

子供の頃(70年代から80年代)、小説と漫画とアニメとゲームが好きだった。このうち、小説、漫画(あと映画、テレビドラマなど)にのめり込んでいることに対して後ろめたさはほどんどなかった。

一方で、アニメには若干、ゲームには強い「非社会性」を感じていた。ゲームは、漫画・アニメのあとに登場した最後のサブカルチャー。アニメとゲームは、まさに僕の世代をターゲットにして生み出されたもの。

たぶん今でもゲームは、一般社会的には「最下層のエンタメ=取るに足らない暇つぶし」という「下位」に位置していると思う。「ゲームなんてやってないで・・・」。僕自身、高校生ぐらいで、こんなことをしていてはだめだと思いゲームから距離を取った。それから20年以上のブランクがある。

5年ぐらい前に「マインクラフト(2011-)」が「世界一の販売数(ダウンロード数)」と知って興味を持って調べる。その時、「ボクセル(ピクセル)調の一人称視点なんてマニアックなゲームが世界一で、しかも10年も開発が続いてアップデートされているのか」と驚き、現代のゲームを取り巻く情況に興味を持つようになった。Steamのような世界規模のゲーム配信プラットフォームの存在もその時知った。

ゲームに対する社会的意識は、僕らの時代とは大きく変わっている。極端かもしれないが、今の20代ぐらいまでの人たちには、ゲームは教養(リベラルアーツ、解放のための技術)なのではないか。僕らにとっての漫画のように。

ヒップホップの人たち、ビートボクサーやラッパーもゲーム好きが多い。アニメ好きも多い。大谷翔平さんはフォートナイトでメジャーリーグのチームメイトと仲良くなった。山田涼介さんはapex legendsの「プレデター(上位750人、0.3%程度)」を達成。

80年代のあのころからずっとゲームに真面目に踏みとどまり続けた人たちのことを思うと胸が痛む。プロゲーマーの梅原大吾さんとか。

現在のゲーム関連で興味深い動き 2010年代以降

イェスパー・ユール『ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム』2016、原書2011

ゲームを学術的に扱った研究書。ゲームの面白さとはなにかを「学術的に」論じ(ようとし)ている。「ゲームの何が面白いのか」を議論する基盤を少しずつ積み上げていって、みんなで「ゲームの面白さ」の話ができるようにしていく。じっくりとした議論の進め方自体がとても面白い。それこそゲームをやってる感じ。少しずつワールドマップが広がっていく感じ。

日本デジタルゲーム学会 2011-

「本学会は2011年4月28日付けで、日本学術会議より「日本学術会議協力学術研究団体」に指定されております。」。ゲーム関連学会が、日本にも。

美術手帖2020年8月号 特集「ゲーム×アート」

今、一番元気の良いアート領域は、たぶんゲーム。未成熟なワクワク感。大きなメディアにあらわれてくるアート情報は、既にアートとして受容されているもの(絵画や彫刻など「過去芸術」)が多いが、現在の美術の内部でホットなのは「ゲーム」なのではないか。もう少し厳密には、現代美術の現在の主戦場は「漫画・アニメ」で、その次が「ゲーム」。村上隆もトレーディング・カード・ゲームを出した。たぶんデジタルゲーム開発もしたい(してる?)のではないか。

『ゲンロン8 ゲームの時代』2018

ゲームについての共同討議。1991年から2018年までのゲーム史年表とキーワード集。炎上した。

森美術館「マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アート」2025

6月8日まで開催中。実は今、一番気になっている展示会。個々の作品を観たいというよりは、アートにおけるゲーム領域がどれぐらい「メイン」なのか、あるいは「周辺」なのかの現時点での感じを掴みたい。どれぐらいアートの世界にゲームがはびこっているのか。活性を持っているのか。観に行けそうにないのが残念。

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』1938、ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』1958

「遊び」についての古典。実は「遊び」ついて真面目に論考された本は少なくて、古典はこの2冊が必読。あとはあまりない。哲学の古典としては比較的新しい年代。現代の「ゲーム」が置かれているのと同じような「取るに足らない」位置に「遊び」自体があったということだろう。「ホモ・ルーデンス」はホイジンガが65歳で、ようやく書いた本。「面白さ」を研究することの難しさ。

「絵本が登場するとき」阿部卓也、『ゲンロン17』収録 2024

絵本はもともと書物の一種というより、おもちゃ(玩具)に隣接・連続した存在だ、という側面がある。[94]

絵本は本というよりおもちゃだった。だから「電子化」されにくい。興味深いことに、おもちゃの一種であるゲームはもともと「電子化(デジタル)」されたもので、そこから逆流するように、おもちゃとしての絵本に、「プレイできる面白さ」が流入していることになる。

子供は絵本を何度も何度も、一字一句記憶するぐらい読む。ゲームで言うと、リプレイ性が高い。何度でも遊べる。こういうところも絵本とゲームとに通ずる回路があるように思う。

装幀(ブックデザイン)が重要なのも、おもちゃと考えると納得がいく。祖父江慎さん、藤井遥さんも楽しそうに遊んでいる、いい仕事。

以上




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