料理はわりと好きだ。僕にとって料理の良さはその完了感にあると思う。料理を作り、食べるという一連の流れの終了に「食べた」という完了の感じが伴っている。
完了感には二つの要素があって、一つは終了、途絶である。これについては説明がいらないと思うけれど、ある流れの終了、その途絶だけでは完了感には足りない。もう一つの要素は、その終了、途絶を持って、それ以前の過程がすうっと静まる感じ、鎮静である。
料理を作り、食べ終わったときに、それを作っていた過程、食べていた過程が、その終了、途絶に対して、すぅっと静まり、鎮静する感覚が立ち上がる。この時、僕は完了感を味わっている。
完了感自体には心地よいとか心地悪いとかはない。いや、どちらの要素もあって、心地よい感じの方に重心があれば、その完了感は達成感と言えるだろうし、その時すぅっと静まっていく過程に対しては「報われた」という感じがするだろう。
心地悪い感じの方に重心があれば、あぁ終わってしまったという「惜(お)しい」感覚をその過程に対して感じるだろう。ただ、いずれにせよ、終了・途絶という現象と、その現象に向かって過去のプロセスが打ち寄せ、プロセス自体は鎮静していく感覚が、完了感としてある。
もしも、ある流れがただ終了、途絶するだけで、それ以前の過程が静まるような感覚がなければ、そこには完了感はなく、ただ、呆然と未来の消失があり、その時過去のプロセスは静まらずそのままになる。
完了感を伴う流れには、反復性がある。完了感は反復を促す。完了した行為を、またあとでもう一度やってみたいという感じが立ち上がる。料理して食べるということに関してはこれは良い方向に働く。反復すれば料理すること自体にも食べるということ自体にも、修練として働いて、より大きな完了感、そして達成感を与える。そしてその完了感はさらなる反復を促していく。
完了感によって、同じことの繰り返しとして、仕事や作業をする人は、反復によって作業を身体化し、それによって「身につく」「上手になる」という「上達」を得る。
この世の中の多くの仕事、作業は、このような完了感を持った反復の積み上げによって構成されている。
その仕事、その作業について完了感、できれば達成感を得られれば、その仕事、その作業はその人にとって「向いている」と言える。反復によって、さらに増幅されていく。逆に、その仕事、その作業について完了感を得られない場合は、その人にとってその仕事、その作業は「向いていない」と言える。
「向いている」仕事をしている人は「幸運」だと僕は思う。
僕にとって、書くことはほぼ常に完了感を伴わない。料理を作って食べるような完了感はない。書くことの終了、途絶は、もうこれ以上は「どうしようもない」という諦めによって訪れる。この時、書いていた過程は鎮静せず、隙きあらば襲いかかろうとする野獣のような熱を帯び続けている。本当はこうではない、もっとこうだったはず、もっとこうできるのに、という不全があり、しかし、その不全は「どうしようもない」という諦めの前にうちしおれる。次に書くときは、反復ではなく、その不全の十全を目指すようなものとして、発生する。うちしおれた意識がもう一度息を吹き返すまでの重い時間がある。
だから僕にとって書くことは「向いていない」。
と、ここで終わってしまうとなんとも物悲しいだけなので、もう少し頑張る。
完了感を伴わない「向いていない」仕事をする人というのは、その仕事を一つの終わりなき継続として捉えることもできる。完了しないのだから、終了、途絶もしていないのだ、と。
完了感を伴わない人は、反復は存在せず、ただ「どうしようもなさ」への無防備な盲進によって、進まざるを得ない。ここには「身につく」「上手になる」といった「上達」ではない、方向がある。
ある仕事やある作業に対して、革新的な突破というのは、この盲進的な方向が必要であることが多い。完了感のない、拠り所のない、永久的な持続感覚の時間と空間のなかで、ある局面を突破するほんの小さな一歩が記されていく。もちろん、大半の一歩は何も引き起こさないまま消えていく。膨大で無方向な一歩の果てに、小さく突破する一歩が現れる。
これは「向いている」仕事をしている人にも実は訪れうる。「向いている」ことで上達していった先に、もはや完了感を得ないような領域が広がっている場合がある。そのとき「向いていた」はずの仕事は、もはや「向いていない」。完了感と引き換えに「向いていない」という無方向感を得たのだ。そうして、そこから新たな突破する一歩のために膨大な右往左往が始まる。そういう人が局面を切り開いていく。
完了感には二つの要素があって、一つは終了、途絶である。これについては説明がいらないと思うけれど、ある流れの終了、その途絶だけでは完了感には足りない。もう一つの要素は、その終了、途絶を持って、それ以前の過程がすうっと静まる感じ、鎮静である。
料理を作り、食べ終わったときに、それを作っていた過程、食べていた過程が、その終了、途絶に対して、すぅっと静まり、鎮静する感覚が立ち上がる。この時、僕は完了感を味わっている。
完了感自体には心地よいとか心地悪いとかはない。いや、どちらの要素もあって、心地よい感じの方に重心があれば、その完了感は達成感と言えるだろうし、その時すぅっと静まっていく過程に対しては「報われた」という感じがするだろう。
心地悪い感じの方に重心があれば、あぁ終わってしまったという「惜(お)しい」感覚をその過程に対して感じるだろう。ただ、いずれにせよ、終了・途絶という現象と、その現象に向かって過去のプロセスが打ち寄せ、プロセス自体は鎮静していく感覚が、完了感としてある。
もしも、ある流れがただ終了、途絶するだけで、それ以前の過程が静まるような感覚がなければ、そこには完了感はなく、ただ、呆然と未来の消失があり、その時過去のプロセスは静まらずそのままになる。
完了感を伴う流れには、反復性がある。完了感は反復を促す。完了した行為を、またあとでもう一度やってみたいという感じが立ち上がる。料理して食べるということに関してはこれは良い方向に働く。反復すれば料理すること自体にも食べるということ自体にも、修練として働いて、より大きな完了感、そして達成感を与える。そしてその完了感はさらなる反復を促していく。
完了感によって、同じことの繰り返しとして、仕事や作業をする人は、反復によって作業を身体化し、それによって「身につく」「上手になる」という「上達」を得る。
その仕事、その作業について完了感、できれば達成感を得られれば、その仕事、その作業はその人にとって「向いている」と言える。反復によって、さらに増幅されていく。逆に、その仕事、その作業について完了感を得られない場合は、その人にとってその仕事、その作業は「向いていない」と言える。
「向いている」仕事をしている人は「幸運」だと僕は思う。
僕にとって、書くことはほぼ常に完了感を伴わない。料理を作って食べるような完了感はない。書くことの終了、途絶は、もうこれ以上は「どうしようもない」という諦めによって訪れる。この時、書いていた過程は鎮静せず、隙きあらば襲いかかろうとする野獣のような熱を帯び続けている。本当はこうではない、もっとこうだったはず、もっとこうできるのに、という不全があり、しかし、その不全は「どうしようもない」という諦めの前にうちしおれる。次に書くときは、反復ではなく、その不全の十全を目指すようなものとして、発生する。うちしおれた意識がもう一度息を吹き返すまでの重い時間がある。
だから僕にとって書くことは「向いていない」。
と、ここで終わってしまうとなんとも物悲しいだけなので、もう少し頑張る。
完了感を伴わない「向いていない」仕事をする人というのは、その仕事を一つの終わりなき継続として捉えることもできる。完了しないのだから、終了、途絶もしていないのだ、と。
完了感を伴わない人は、反復は存在せず、ただ「どうしようもなさ」への無防備な盲進によって、進まざるを得ない。ここには「身につく」「上手になる」といった「上達」ではない、方向がある。
ある仕事やある作業に対して、革新的な突破というのは、この盲進的な方向が必要であることが多い。完了感のない、拠り所のない、永久的な持続感覚の時間と空間のなかで、ある局面を突破するほんの小さな一歩が記されていく。もちろん、大半の一歩は何も引き起こさないまま消えていく。膨大で無方向な一歩の果てに、小さく突破する一歩が現れる。
これは「向いている」仕事をしている人にも実は訪れうる。「向いている」ことで上達していった先に、もはや完了感を得ないような領域が広がっている場合がある。そのとき「向いていた」はずの仕事は、もはや「向いていない」。完了感と引き換えに「向いていない」という無方向感を得たのだ。そうして、そこから新たな突破する一歩のために膨大な右往左往が始まる。そういう人が局面を切り開いていく。