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December 27, 2025
March 12, 2025
最近のこととお茶の苗木「あさひ」。
なんだが慌ただしくしてしまっていてなんとなく書こうと思ってるのになんども時間が取れずにいた。
なにを書こうと思ったかはなんだか忘れてしまったけど、体調を書きたい気はしてたので、ちょっと記録しとこう。
妊娠7か月に入った。予定日まであと109日。
相変わらず眠い。でも気持ち悪さは随分おさまってありがたい。つわり中は毎回飲めなくなってにおいもイヤになるコーヒー。とは言えこの時期にはもう飲み始めてた気がするけど、今回はまだ飲む気にならないし匂いまだ今一つ。出産したら飲みたくなりそう。
一昨年までは春のなんとなくのアレルギー程度の気分だったけど、去年からこれはさすがに花粉症じゃないかという症状があって薬を飲んだ。
産婦人科で花粉症の薬は飲めるのかと聞いてみたけど、あまり普通に飲んでいいよという感じでもない。どうなるかわからないので予防的にマスクをしたり、布団を干す頻度を下げることにした。ひどくならないといい。今、普段よりくしゃみ、鼻水少し多めくらい。こんな感じでやり過ごせればなぁ。
妊娠中といってもそれなりに飲める薬もあるけどやっぱり駄目なものもある。
そういえば、今年の芸術祭は私を含めて出展者に2人も妊婦がいる。
出展者家族の小さい子もうちの2歳、6歳に加えさがちゃんの1歳の息子さんが来てくれる予定。
うまく表現しづらいが、なんだか未来のある光景というかそんな気分になる。
運営はある種大変というか、思い通りにはいかない部分もあるだろうけどなんだか楽しい。
今日はお茶の苗木「あさひ」を購入。
実はお茶の木はすでに植わっている。
黄檗の真柴豆腐さんが種から育ててくれたこれもありがたい木だ。
ただ、成長が極めてゆっくりで、もう1本あってもいいだろうと購入した。
(今年はもともと黄檗(きはだ)の木を植えようと考えていたけれど、10-20mに育つ木だと知り、やめることにした。ここに植えてもそんなに育たないだろうけど、元気にすくすく育ってもらえる気もしなくなってしまった。せっかくなのでなにか植えたくなってお茶に辿り着いた。)
「あさひ」については宇治市五ケ庄にある古川製茶さんのホームページで「宇治・五ヶ庄で品種として見出された種」と書かれていたのでこれに決めた。まるネコ堂も宇治市五ケ庄にある。
五ケ庄、まあまあ広いので古川製茶さんも全くしらなかったが、ここで見いだされた種を育てるってなんだか楽しい。
February 27, 2025
妊娠6か月も後半。眠い。そして、ジャムとか。
妊娠6か月ってこんなに眠いものなのか。
連休中、多分葉からうつった風邪で寝ていて、それ自体は1日寝たらほぼよくなった。
風邪の前は毎日毎日空腹がしんどかったけど、風邪を引いたらつわりっぽい胃のムカムカが戻ってきて、さらに眠気も結構ある。だからってつわりの時のように動けないとかはないけど、前はこんなんじゃなかった気がみたいなことを思ってしまう。
あと、お腹がもうこんなに出るのか?前ってこんなんやったっけ?と3人目にしていろいろ驚いている。
忙しいなと思っても、なるべく自力整体をするようにして体調は整えるように心掛けて、寒すぎてやる気にならなかった雑巾がけもそろそろ復活を考えよう。
妊娠アプリみたいなのをなんとなく入れていて、たまに覗くと予定日まで「○日」とか出てくるのが面白い。昨日は「あと123日」だった。
ことあるごとにいろいろ考えこんだ新の妊娠だったけど、もう全然考えることも違っている。新や葉もいまだ姿が見えないお腹の中の人にはあまり興味がなく、目の前の出来事の方が刺激的で注目は集めない。
庭の甘夏でマーマレードを作ろうと思って少し調べてみると糸井重里がじゃむおじさんだったと知る。それなりにいろいろ作ったんだろうなと思うけど、それ以上にこうやって何を考えたかとか、どうやったかを記録にまとめて残していることが魅力ですごいなと思う。
それに10年以上前に始まった企画っぽいけど、去年もちゃんとジャム販売をしている。
この人とその周りはなんかいいなと思う。
かっこいい、って感じはないんやけど、なんか気になるし、そういうことをちゃんとやるのね、とはっとさせられる。結構気になることをやっている。
今朝、先月作ったマーマレードの瓶をあけると、新と葉がすごい勢いで食べた。
新、食べる前からパンの小ささに激怒。
葉、ジャムをパンにつけるという発想は皆無。
美味しいからに違いない。
3月に収穫する甘夏で沢山作ろうと思う。糸井重里がこれからたくさん作るならとおすすめするジャムロートと保管用に瓶を買おうと思う。
February 12, 2025
この冬の米麹づくりひと段落。
この1週間程度の間に2回も米こうじを仕込んで、さすがに変な寝不足で疲れた。
麹づくりは温度管理が大事で夜の間も、上がりすぎてないかをチェックしたり下がりすぎてないかとチェックしたり、あるいは停滞しすぎてないかをチェックしたりする。夜の間も2‐3時間おきに目覚ましをかけたり、なんとなく目が覚めたりで起きてしまう。
1回の仕込みで二晩そんな感じ。週に計4日そんな夜を過ごした。
そして最後の1日は、なんとなくここから下がるかもなーと思いつつ、なんとなく布団でだらけていて、まあこれでもできるにはできるしーと午前3時ごろ気になりながら温度計の表記だけちらっと見て寝た。朝6時やっぱり下がっていた。下がりすぎ。
予感があったので元気があれば4時に起きて、確認→湯たんぽの湯を交換という手はあった。
それでもまあ麹はよくできた。
麹が上手くできると美味しいようで、麴箱から麹を出すたびに葉が寄ってきて食べたがる。随分食べた。新と隆はこれは旨い、前回よりよい。場所によって味が違う、と感想までくれてどんどん減る。
子どもが生まれると3か月くらいは、おっぱい(又はミルク)のためにこれくらいの頻度で夜も起きていることになる。そういえば葉の時はほとんど苦にならず合間に寝れていれば昼間の眠気はほぼなかった。丁度良く興奮ホルモンが分泌されたんだと勝手に思っていて、でも新の時は、昼間眠いかは覚えてないけど夜のアラームにも目が覚ませず、アラームはいたずらに隆を起こしてた。
そもそも、つわりがすっきりはあけず、眠さとか微妙な気持ち悪さとか変な空腹感とか残ってしまっているので、麹と疲れはそんなに関係ないのか、どうなのか。
米こうじの仕込みはこれで今シーズンは終了。味噌もまるネコ堂の分も仕込み終えた。とてもいろいろ試せたのには満足。隆が見つけてくれた永田十蔵さんの本のおかげでとても楽しめた。
どんな味噌を仕込んだかは、また一度まとめておきたい。
September 25, 2024
みんなで作って食べる 秋から冬の予定。
「みんなで作って食べる」の秋から冬の予定ができています。
餅つきシーズンが始まります。
詳細はサイトをご覧ください。
■「みんなで作って食べる」ウェブサイト
気になったものがあれば是非いらしてください!
May 16, 2024
自分で作った米こうじで味噌を仕込みました。
白米とこうじ菌から米麴を作りました。
それで味噌を仕込みました。味噌づくり歴10年以上で初めてのことです。
ほんとは冬の間に味噌に仕込もうと思ったんですが、なかなか自分でこうじ作りをすることができず、なんとがぎりぎり本格的に暑くなる前にすべりこみました。これで成功すれば秋には食べれるものになっているはずです。
こうじは板状にくっつくほど元気には作れませんでしたが、いい匂いはしていました。
ほんとにどうなるか。
あらたは年明けに味噌づくりをした時よりパワーアップしていて、一人で重い杵をしっかり使って大豆をつぶしてくれました。
しかし、途中からいろいろあり喧嘩して最後はわたし一人でかめに味噌をつめてました。
この冬はうちの分は全部手作りこうじで賄えるようになったらなーと思ってます。
May 6, 2024
みんなで作って食べる企画。絵本「おにぎりつくるよ!」
みんなで作って食べる企画。前回からちょっとでも作る動機が生まれればと、作るものにちなんだ絵本を作ってみてます。
今回はおにぎりづくりの絵本。
今回はおにぎりづくりの絵本。
どんな絵本にしようかと考えて、今まで毎回のようにある小さいハプニングを入れながらにぎり方の説明をしました。
手に米粒つきまくってるのは隆のアイデアです。
子どもたちが見てくれたのがなによりでした。
描いてあるどの子どもが自分なのかというのが子どもたちの大きな関心事なのは意外でした。
前回絵本作成時に、服はピンクでハートがいいとか、顔はもっとかわいい方がいいとか意見をもらったので取り入れています。
でも顔はまだもっとかわいい方がいいらしく、口が大きいともいわれました。
次回のぎょうざ作りも絵本作る予定です。
November 18, 2022
May 28, 2022
【828】コーヒーの一部をどくだみ茶にリプレース。
朝、アラタを保育園に送り出し、掃除や洗濯を終えて一杯。
昼食後に一杯。
おやつとともに一杯。これは無いときもある。
夕食後に一杯。
と毎日3、4杯飲んでいたコーヒーの一部をどくだみ茶に置き換えてみています。とりあえず夕食後の分から。
コーヒーは今でも好きで、特に体調に影響が出ているわけでもないのだけれど、そんなに飲まなくてもいいかなとは思うようになってきていました。朝のコーヒーは素晴らしいけれど、流石に4杯目ぐらいにもなると美味しさの感動は減るわけで、その残念さが残念。
ドクダミは庭に元気に生えていて、刈り取って吊るして干して焙煎してお茶にします。焙煎はしなくてもいいのだけれど、焙じた味が好みなので。こういう工程を一つ一つ進めていく楽しさがあります。
夕食後のコーヒーをどくだみ茶にしはじめて二週間ほど経ちますが、どくだみ茶でも十分に満足です。夜中にトイレに起きることがなくなったのが嬉しい誤算。朝のコーヒーのありがたみもこれまでより増して、これも嬉しい。
もう一杯分ぐらいリプレースできるかもしれない。
November 5, 2018
【481】煮魚部、真メバル。
煮魚部とは、スーパーで安くて美味しそうな魚があれば、たとえ食べたことがなくても臆することなく買って帰り、醤油と味醂で煮る部活である。「にざかなぶ」と呼ぶ。
二尾で200円。近くのスーパー「ハッピーテラダ」で。いつものようにフライパンで、ほぼ同量の水、味醂、醤油で煮る。
前のエントリーではフライパンに先に魚を並べてそこに水などを入れていたけれど、先に水と調味料だけを入れて煮立たせてから魚を入れたほうが、それっぽいと思うので、今回はその方式で。
あと、その前に、鱗と内臓は取った。鱗は包丁の背中で尻尾の方からゾリゾリと髭の逆剃りっぽく削ぎ落とす。結構ガリガリやっても身が潰れたりしないので、思いっきりやって大丈夫。続いてお腹のところに包丁を入れて、指で内蔵を掻き出して、水で洗う。で、煮る。
美味しい。
はっきり言って、この味付けだとまず美味しい。煮魚、失敗する気がしない。メバルはほろほろと身がほぐれる感じが美味しさを倍加している。
設立の経緯については以下。
【473】煮魚部の活動(生後55日目)
【473】煮魚部の活動(生後55日目)
今日の活動は、真メバル
| 普通、頭が左になるように置くはず。これは逆。 この「魚の頭は右か左か」ネタは倉本聰もエッセイに書いてた。 |
前のエントリーではフライパンに先に魚を並べてそこに水などを入れていたけれど、先に水と調味料だけを入れて煮立たせてから魚を入れたほうが、それっぽいと思うので、今回はその方式で。
あと、その前に、鱗と内臓は取った。鱗は包丁の背中で尻尾の方からゾリゾリと髭の逆剃りっぽく削ぎ落とす。結構ガリガリやっても身が潰れたりしないので、思いっきりやって大丈夫。続いてお腹のところに包丁を入れて、指で内蔵を掻き出して、水で洗う。で、煮る。
美味しい。
はっきり言って、この味付けだとまず美味しい。煮魚、失敗する気がしない。メバルはほろほろと身がほぐれる感じが美味しさを倍加している。
October 31, 2018
【473】煮魚部の活動(生後55日目)
煮魚部とは
スーパーで安くて美味しそうな魚があれば、たとえ食べたことがなくても臆することなく買って帰り、醤油と味醂で煮る部活である。「にざかなぶ」と呼ぶ。2日に一回、あるいは3日に一回程度、活動する。本日の活動はアカガレイ。
しばらく活動しているとわかるのだけど、だいたいカレイである。エテガレイ、ミズカレイ、アカガレイと種類が豊富。エテガレイが安いことが多い。他にはニギス、スルメイカなど。基本的に魚は大きい方が美味しいので、なるべく大きなのを買う。(小さいのがいっぱい入って安いパックは買わないほうがいい)
予算的には二人分で198から398円。あるいは、そこからの2割引きから半額ぐらい。
煮る方法はだいたいいつも同じである。
一、フライパンに魚を並べる。
重ならないようにという注意書きをよく見かける。たぶん火の通りが均一になるからだろう。
二、水、みりん、醤油を同量入れる。
基本的に味はだいたいこれでいい。活動を進めていくうち好みや魚に合わせてバランスを変えていけるようになる。量は魚の身が半分程度浸るぐらい。だから、たとえば大さじで、水・みりん・醤油、水・みりん・醤油と入れていって適当なところでやめればいい。
三、煮る。
中火ぐらい。煮汁をおたまやスプーンでかけながらやると、上の面にも火が通る。魚は結構すぐに火が通る。5分とか10分とか長くても15分とか、そんな程度。途中でちょっとつまんだりして様子を見ると良い。ひっくり返すことはあまりしないけれど、身が厚い鯛とかだと返したほうが火が通る。まぁ、新鮮であれば多少生でも大丈夫。
四、盛り付けて、食べる。
煮魚は、一見難しそうに思うかもしれないが、短時間でできて手間がかからず失敗が少ない料理。味付けも醤油味醂同量を基本にすれば、だいたい美味しく食べられる。慣れてくると自分なりの工夫をすればいい。煮魚部のおかげでスーパーの鮮魚コーナーが楽しみになった。
で、子育てとどう関係があるのかといえば、母乳の出が良くなるらしい。これに、ニア玄米と純粋味噌汁をつけるとさらに良い、ような気がする。
部活化の経緯
澪は煮魚をあまり食べたことがなかったらしく、自分でもほとんど作らない。当然、好きな料理でもなかった。僕は煮魚が好きだったから、それなら僕が作って食べさせればいいと思って、部活化してみた。今では澪も煮魚好きになってちょくちょくリクエストが出る。August 23, 2018
【445】羊羹を作る。
羊羹。
夏目漱石も好きだった文学的由緒正しいお菓子である。
寒天を戻す。
砂糖と寒天を溶かす。
こしあんを加える。
スーパーで買ってきた800グラム300円ぐらいの袋詰のやつを半分ぐらい。
たぶんつぶあんでもできると思う。
あんを溶かす。
混ぜる。
水分が減ってくるにつれ粘度が上がって泡が大きくなる。
このあたりまで来ると「練る」感じ。
ヘラで混ぜたときに鍋底が見えるぐらいまでしっかり練る。
型に流す。
冷えて固まる。冷蔵庫だと早い。
切る。
特に言うべきことが見当たらないぐらいちゃんと美味しい。
あんから作ればもっと美味しくなるかもしれない。
大量に砂糖が入っているので、そう簡単に腐らない。
試す気にはならないけれど、常温で一年ぐらいは保つらしい。
で、
もともとは中国の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった。(ウィキペディア「羊羹」)
というのだから驚きである。
良くもまぁここまで変形したものだ。
良くもまぁここまで変形したものだ。
May 23, 2018
May 22, 2018
【415】晩ごはん「赤飯と手羽元の煮たやつ」
取り立ててめでたいことがあるわけではないけれど赤飯。手羽元を醤油と酢で煮たもの。納豆。謎のらっきょ。写真ではほとんど食べられたあとだけど真柴豆腐店の田舎豆腐。田舎豆腐は塩とごま油で生レバー風にしていつも食べる。美味しい。おあげも美味しくてよく買う。
May 19, 2018
【411】晩ごはん「ほうれん草と豚肉の鍋」
まるネコ堂では食事の話になることが多いので、晩ごはんシリーズ開始します。
野菜を作っている滋賀の長浜のおっちゃんからほうれん草、カブ、キャベツを送ってもらった。
昆布で出汁をとり、生姜ひとかけ分を3つぐらいに切ってぼちょんと入れる。あとは大量のほうれん草とそれなりの量の豚肉を入れれば鍋。子供の頃、家ではこれを修飾子なしの「しゃぶしゃぶ」と称していたが、かなりアレンジの利いた代物だったと知ったのは大学に入ってからだった。
味付けは醤油と酢を適当にかけて食べる。ごまがあったのでごまを擦って酢、醤油、みりんでごまダレも作った。あと大根おろし。
もう一品。カブをスライスして塩、オリーブオイル、バルサミコ酢をかけた。オリーブオイルとバルサミコ酢は先日の言語合宿の参加者にいただいたもの。
基本的に毎日美味しいものを食べている。今日も美味しかった。やや食べ過ぎ。
December 3, 2016
【378】猟師さんと会った。
今日、猟師さんと会った。話を聞いた。これが面白かった。
聞いたままではなくて僕の理解だけれど、
縄文時代からずっと日本では猟を行ってきて、その肉を食べていた。明治以降に家畜の牛豚鶏を食べるようになったけれど、それまでは狩猟の肉を食べていた。
猟師は奥山という深い自然の世界と社会という人の世界の間を行き来する仕事。
猟師は奥山に入るから山で起こっている異変に早く気がつく。鹿が増えすぎているとか、がけ崩れが起きそうな場所とか、町の人ではわからないようなこともわかる。
猟というのは神聖な行為である。
東山いきいき市民活動センターのツキイチカフェというイベントで兵田大和さんという猟師さんは、そんな話をしてくれた。猟というものの全体像を捉えた丁寧な話を聞いているうちに、これはまさしく網野善彦の言う狩猟民、漂泊民、つまり「無縁」の話だと気がついた。
兵田さんは、現代的な言葉遣いと現代的な方法で、つまりパワーポイントのアニメーションや写真を駆使して、この話をしてくれたわけだけど、「以前の山とはまるっきり変わってしまった。今、日本の山の多くはこんな状況になってしまっている」という話自体は、もしも1000年前だったら、それこそ普段はめったに里に姿を見せない森の人が警告を発しにやってきた一大事で、ここから『もののけ姫』のような物語が始まってしまうような出来事なのだという気分になってくる。
僕が兵田さんの話を聞こうと思った動機は、鞣(なめ)しをやってみたくて、そのための鹿皮を手に入れる方法や鞣し方を教えてもらおうという「下心」からだったのだけど、思わぬ〈世界〉に触れることができて密かに興奮していた。
「中世においてピークを迎えた無縁の原理と場は現代ではもう途絶えてなくなってしまった」というのが、網野善彦を読み始めたときの僕の「知識」だったけれど、今では全くそうは思わない。
無縁の原理と場は、今でも当たり前に存在している。しかもそれは、時代性を引きずった遺物として残っているわけではなく、現代的な姿となって生きている。僕たちはそんな原理と場を今でも生き生きと生きることができる。
「獣害」と言われる現状はかなり深刻ではあるのだと知ったのだけれど、兵田さんに会えて僕は逆にそんなことを一人で確かめられた気になって、嬉しくなった。
November 27, 2016
【375】「自給自足」でいう〈自〉とは何か。
「自給自足」という言葉を最近あまり聞かなくなった。
とあえて言ってしまうけれど、少し前までは割りとすんなり聞いていた。
僕自身なんとなく自給自足的な方向性を持って生活の行方を見ていたような頃があった。
と思い出せる。
でも僕は今、この言葉に対して「そうではない」感覚がある。
一般に自給自足という言葉は「食材を自分で作って自分で調理して食べる」というような〈範囲〉で使われることが多いと思う。
最初に結論めいたことを書いてしまうと、自給自足という概念はこの〈範囲〉についての認識の仕方の一つである。と思う。
以前わりとよく見かけたのだけれど、上記のような範囲で、つまり食材に関する範囲で自給自足を達成している、あるいは目指している人が、ユニクロのフリースを着ていた。
「ユニクロのフリース」が時代を感じさせるけれど、その時代感はたぶん正しくて、「(食の)自給自足」機運が盛り上がったのがユニクロのフリースがブレイクした時期に重なるのだと思う。
ユニクロのフリースは当時の日本企業が達成した国際経済における一つの先端で、化学繊維を用いて、中国の低労働賃金で、同一規格のものを大量生産し、日本という先進国経済で安価に大量に売りさばくというもので、その存在自体は当時の「(食の)自給自足」志向の対局に位置していると思う。そういったものからの離脱が「自給自足」志向であったはずだ。
「矛盾してるじゃないか」という指摘がしたいわけではない。
当時の「自給自足」という言葉が指し示すある感じがいったいどういうものであったのかを、今の時点で文字にしたいというのが僕の今の意識だから、別に矛盾しててもよくて、ようするに安くて温かい「ユニクロのフリース」はかなりの必然性を持っていたということだろう。
ユニクロのフリースが特に安価で高機能であるという以前に、衣類の自給自足はそもそも難易度が非常に高い。化学繊維は論外として、論外というのは、石油から繊維を「自分で」作る(自給する)のはそんなに難しくはなさそうだけど、これはこれで話がずれるし、「石油を自分で作る」のに至っては人類の時間すら超えることになる気がする。なので、例えば綿花や麻を栽培して糸にして布を織るということになるのだけれど、これは不可能ではないにしろ、畑や田んぼで食材を得ることに比べると難易度が跳ね上がる。稲わらを編んだものを着るなら比較的簡単かもしれない。あるいは裸で生活するとか。
いずれにせよ、「自給自足」の対象物として大半の人の意識から衣類は除去されていた。自給自足の〈範囲〉に含まれていなかったということだ。衣類だけではなく、結構たくさんの身の回りのものが除去されている。難しそうなところで例を挙げると、鍋釜、窓ガラス、筆記用具なんかも意外に難しい。
実は「食」に関しても、細かく見ると「自給」が困難なものがある。塩を沿岸部や岩塩が採れるところ以外で自給するのは、高難度だと思う。
自分では作れないけれど、何かと交換して入手することを「自給自足」に含めるためには、もう一段の設定が必要で、「自分で作った食材と直接的に物々交換する」という〈範囲〉が登場する。これに加えて、貨幣や労働を介在すると、かなり込み入った、ということはかなり恣意的で個人的な〈範囲〉設定が必要になる。いずれにせよ〈範囲〉をどこにとるかの問題である。ずっと広げていっちゃうと「自分の労働によって得た金銭的対価をコンビニ弁当と交換する」とかも自給自足に含まれてしまうことになる。
こうやって見てくると「自給自足」が対象としている「モノ」は意外に狭いことがわかる。でも別に狭くてもいいと僕は思う。狭いから「そうではない」と感じているわけではない。
僕は、自分で食べる分の野菜や米を自分で作っている人には敬意がある。単純にいいなぁと思う。衣類だって難度が高いだけで不可能ではないし、自分に必要な衣類その他を綿花や麻から自分で作っている人も実際にいると思う。そういう人に対して僕自身はただただすごいと思う。
だから「対象物やその入手経路に〈範囲〉があること」は、僕の「自給自足」という語に対する「そうではない」感じにはつながらない。
こんなふうに対象物の観点でいえば、「食材の」「米の」「夏野菜の」(その他どんな範囲でも)自給自足は、問題にならないどころか端的に羨ましい。「酒肴の」自給自足なんてとても素敵だと思う。
なので、僕が気になっているのは別の点なのだと思う。
つまりそれは「自給自足」でいうところの〈自〉の〈範囲〉はどうなっているのかで、僕はここに「自給自足」という言葉に対して持っている「そうではない」感じがある。
僕の家では、主にパートナーの澪がやっているんだけれど、庭でちょっとした野菜や果物を作っている。毎年うまくできるのは唐辛子やししとう、大豆もまずまず、今年からぶどうがなるようになったし、にんにくも意外にうまくできた。
家庭菜園レベルだけれど、この程度でも十分に気付くことがある。こういった農作物というものは、気候や天候、土壌の状態に大きく左右されるということだ。つまり、〈自分で〉作ってはいるけれど、〈自分で〉はどうにもならないことによって作物はできたりできなかったりするということだ。
僕たちの庭が作物が取れる程度の土壌として維持されているためには、まず、その場所を僕たちが自由に使うことができなくてはならない。そのためには土地の所有という社会的な権利が必要になる。この社会的な権利は僕たちだけでは、どうにもならない。社会がそのようになっている必要がある。
いつものように、こういうことは単なる屁理屈なのかもしれない。でも、どうしても僕には、〈自分で〉というところの〈範囲〉として、そういったことまでが入ってくる。
僕だけではない人間(社会)と、人間の範囲を超えた自然によって、食べ物を僕たちは作ることができている。この時、僕の〈自〉の〈範囲〉はとても小さい。
こういったことは、いわゆる「自給自足」的な生活をしている人であれば、嫌でも気がつくことで、そのことを受け入れるということも含めて、生活しているという実感を持っているのではないかと思う。
だから、たぶん、「自給自足」的生活をすればするほど、〈自〉給自足という言葉が使いにくくなっていくと思う。そしてきっと、自分で作ったものと他人が作ったものを交換することは、とてもありがたく思うだろうし、自分で作ったものがお金に替わるのも同じくありがたいことだろう。そのお金を使って自分で作るには難度が高いものを購入することにも抵抗はないだろう。そういうことを「自給自足」の〈範囲〉に含めるかどうかなんてどうでもいいと感じるだろう。
繰り返しになるけれど、いわゆる「自給自足」的な生活自体には憧れのようなものも含めて敬意がある。ただ、それを「自給自足」という言葉にしてしまうことには「そうではない」感じがある。
わかりやすさ、インパクトの有る言葉ではあるから、ここから何かが始まるきっかけにはなるだろうけれど、少し行けばむしろ柵(しがらみ)として働きかねない。
そんなことを考えた。
とあえて言ってしまうけれど、少し前までは割りとすんなり聞いていた。
僕自身なんとなく自給自足的な方向性を持って生活の行方を見ていたような頃があった。
と思い出せる。
でも僕は今、この言葉に対して「そうではない」感覚がある。
一般に自給自足という言葉は「食材を自分で作って自分で調理して食べる」というような〈範囲〉で使われることが多いと思う。
最初に結論めいたことを書いてしまうと、自給自足という概念はこの〈範囲〉についての認識の仕方の一つである。と思う。
以前わりとよく見かけたのだけれど、上記のような範囲で、つまり食材に関する範囲で自給自足を達成している、あるいは目指している人が、ユニクロのフリースを着ていた。
「ユニクロのフリース」が時代を感じさせるけれど、その時代感はたぶん正しくて、「(食の)自給自足」機運が盛り上がったのがユニクロのフリースがブレイクした時期に重なるのだと思う。
ユニクロのフリースは当時の日本企業が達成した国際経済における一つの先端で、化学繊維を用いて、中国の低労働賃金で、同一規格のものを大量生産し、日本という先進国経済で安価に大量に売りさばくというもので、その存在自体は当時の「(食の)自給自足」志向の対局に位置していると思う。そういったものからの離脱が「自給自足」志向であったはずだ。
「矛盾してるじゃないか」という指摘がしたいわけではない。
当時の「自給自足」という言葉が指し示すある感じがいったいどういうものであったのかを、今の時点で文字にしたいというのが僕の今の意識だから、別に矛盾しててもよくて、ようするに安くて温かい「ユニクロのフリース」はかなりの必然性を持っていたということだろう。
ユニクロのフリースが特に安価で高機能であるという以前に、衣類の自給自足はそもそも難易度が非常に高い。化学繊維は論外として、論外というのは、石油から繊維を「自分で」作る(自給する)のはそんなに難しくはなさそうだけど、これはこれで話がずれるし、「石油を自分で作る」のに至っては人類の時間すら超えることになる気がする。なので、例えば綿花や麻を栽培して糸にして布を織るということになるのだけれど、これは不可能ではないにしろ、畑や田んぼで食材を得ることに比べると難易度が跳ね上がる。稲わらを編んだものを着るなら比較的簡単かもしれない。あるいは裸で生活するとか。
いずれにせよ、「自給自足」の対象物として大半の人の意識から衣類は除去されていた。自給自足の〈範囲〉に含まれていなかったということだ。衣類だけではなく、結構たくさんの身の回りのものが除去されている。難しそうなところで例を挙げると、鍋釜、窓ガラス、筆記用具なんかも意外に難しい。
実は「食」に関しても、細かく見ると「自給」が困難なものがある。塩を沿岸部や岩塩が採れるところ以外で自給するのは、高難度だと思う。
自分では作れないけれど、何かと交換して入手することを「自給自足」に含めるためには、もう一段の設定が必要で、「自分で作った食材と直接的に物々交換する」という〈範囲〉が登場する。これに加えて、貨幣や労働を介在すると、かなり込み入った、ということはかなり恣意的で個人的な〈範囲〉設定が必要になる。いずれにせよ〈範囲〉をどこにとるかの問題である。ずっと広げていっちゃうと「自分の労働によって得た金銭的対価をコンビニ弁当と交換する」とかも自給自足に含まれてしまうことになる。
こうやって見てくると「自給自足」が対象としている「モノ」は意外に狭いことがわかる。でも別に狭くてもいいと僕は思う。狭いから「そうではない」と感じているわけではない。
僕は、自分で食べる分の野菜や米を自分で作っている人には敬意がある。単純にいいなぁと思う。衣類だって難度が高いだけで不可能ではないし、自分に必要な衣類その他を綿花や麻から自分で作っている人も実際にいると思う。そういう人に対して僕自身はただただすごいと思う。
だから「対象物やその入手経路に〈範囲〉があること」は、僕の「自給自足」という語に対する「そうではない」感じにはつながらない。
こんなふうに対象物の観点でいえば、「食材の」「米の」「夏野菜の」(その他どんな範囲でも)自給自足は、問題にならないどころか端的に羨ましい。「酒肴の」自給自足なんてとても素敵だと思う。
なので、僕が気になっているのは別の点なのだと思う。
つまりそれは「自給自足」でいうところの〈自〉の〈範囲〉はどうなっているのかで、僕はここに「自給自足」という言葉に対して持っている「そうではない」感じがある。
僕の家では、主にパートナーの澪がやっているんだけれど、庭でちょっとした野菜や果物を作っている。毎年うまくできるのは唐辛子やししとう、大豆もまずまず、今年からぶどうがなるようになったし、にんにくも意外にうまくできた。
家庭菜園レベルだけれど、この程度でも十分に気付くことがある。こういった農作物というものは、気候や天候、土壌の状態に大きく左右されるということだ。つまり、〈自分で〉作ってはいるけれど、〈自分で〉はどうにもならないことによって作物はできたりできなかったりするということだ。
僕たちの庭が作物が取れる程度の土壌として維持されているためには、まず、その場所を僕たちが自由に使うことができなくてはならない。そのためには土地の所有という社会的な権利が必要になる。この社会的な権利は僕たちだけでは、どうにもならない。社会がそのようになっている必要がある。
いつものように、こういうことは単なる屁理屈なのかもしれない。でも、どうしても僕には、〈自分で〉というところの〈範囲〉として、そういったことまでが入ってくる。
僕だけではない人間(社会)と、人間の範囲を超えた自然によって、食べ物を僕たちは作ることができている。この時、僕の〈自〉の〈範囲〉はとても小さい。
こういったことは、いわゆる「自給自足」的な生活をしている人であれば、嫌でも気がつくことで、そのことを受け入れるということも含めて、生活しているという実感を持っているのではないかと思う。
だから、たぶん、「自給自足」的生活をすればするほど、〈自〉給自足という言葉が使いにくくなっていくと思う。そしてきっと、自分で作ったものと他人が作ったものを交換することは、とてもありがたく思うだろうし、自分で作ったものがお金に替わるのも同じくありがたいことだろう。そのお金を使って自分で作るには難度が高いものを購入することにも抵抗はないだろう。そういうことを「自給自足」の〈範囲〉に含めるかどうかなんてどうでもいいと感じるだろう。
繰り返しになるけれど、いわゆる「自給自足」的な生活自体には憧れのようなものも含めて敬意がある。ただ、それを「自給自足」という言葉にしてしまうことには「そうではない」感じがある。
わかりやすさ、インパクトの有る言葉ではあるから、ここから何かが始まるきっかけにはなるだろうけれど、少し行けばむしろ柵(しがらみ)として働きかねない。
そんなことを考えた。
October 6, 2016
【369】庭に生えてきた枝豆を引っこ抜いて食べる。
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| 一株でこんなに採れた。 |
庭の片隅に生えていた大豆を引っこ抜く。ちょうど枝豆にして食べるのにいい頃合い。
もともと味噌を作るときに選別してはじいた大豆を適当に庭にばらまいていたやつで、育てようとしたわけではなく育った。
雑草にまみれて、茎も捻くれていて、根元の方は横倒しになって地面を這っていた。それがやたらと元気に育って大量に実をつけている。
こんな風にして何株かが育って、ここ数日毎日一株ずつ抜いて茹でて食べている。
もともとばらまいた大豆はかなりの量だったから、大半の大豆は芽を出さなかったか、芽を出しても育たなかった。
そう考えると全体としては極めて効率が悪い。しかし、大豆をばらまいた以上のことはしていなくて、せいぜい草抜きのときに抜かないようにしたり、周りの雑草を余計に抜いたりしたぐらい。
豆類は痩せた土地のほうがいいという話はよく聞く。事実、庭ではなく多少耕した畑っぽいところのは育ちが悪かった。
育てること、育つこと、放置すること、予め諦めること、恵まれた環境、大量の犠牲、運と実力、収奪と愛情、・・・。
なんというか、いろいろと考えさせられるが、ともかく非常にうまい。
October 3, 2016
【368】「節約」は美徳ではない。むしろ冒涜なのではないか。
ひと月の食費が二人でだいたい3万円ちょっと。一食あたり一人約150円。二人ともほとんど家にいて、ほぼすべての食事を家で作って食べる。この金額で酒も飲みたいだけ飲んでいる。
どの食事も非常に美味しい。僕の味覚が低レベル、ということではないと思う。親にもパートナーにも友人にも、お前は舌が肥えていると言われるし、うちに来てくれる人もたいていうちの料理は美味しいと言う。もしそれがお世辞だとしたら、みんな相当な役者だ。
食材はインターネット通販かよつばの個配か近所のスーパーで買う。お米は親戚が作っているのを相場よりはおそらく安く購入しているが、それ以外は特別なルートで買っているようなものはない。
いつも安くて美味しいものを食べていると思う。食べたいものを食べたいだけ食べているとも思う。だから、こういうことについて、僕は「節約」しているという意識はあまりない。
「節約」という語に僕は「我慢している」というニュアンスを感じるけれど、そういうことはしていない。欲しいものを欲しいだけ買っていて、その金額がこの程度にしかならないということだ。
我慢はしていない、けれど、どこか後ろめたさはある。
日本の社会全体でこんな食生活を送ったら、日本経済は確実に破綻してしまうだろう。こんな金額の消費だけでは、インターネット通販は成立しないかもしれない。よつばもスーパーも破綻するのではないか。
そうしたら僕の食生活を支えているものたちは何も手に入らなくなる。
「節約」して安く食材を手に入れることは一般に美徳とされている。賢いことだとされている。でも本当にそうなんだろうか。すくなくとも「美しい」ことなんだろうか。
欲しいものはすべてお金を出せば買うことができ、それらを玄関まで届けてくれる輸送ネットワークがあり、いらなくなったゴミは家の前においておけば回収される。そういう社会システムの上で僕の低金額で充足した生活は成り立っている。
これは貴族だと思う。貴族の生活だと思う。都に居ながらにして全国の優れた食材が手に入る。自分自身では作らず、それを作っている人、運んでいる人の労働に対して、相対的に僅かな対価で美味を得る生活。
こういうことに僕はどこかで後ろめたさを感じている。
恵まれた僕の場所は誰かの「放蕩」ともいえる莫大な労働によって成り立っている。それを「節約」する「我慢して食べる」あるいは「我慢して食べない」なんて冒涜だと僕は思っている。
どの食事も非常に美味しい。僕の味覚が低レベル、ということではないと思う。親にもパートナーにも友人にも、お前は舌が肥えていると言われるし、うちに来てくれる人もたいていうちの料理は美味しいと言う。もしそれがお世辞だとしたら、みんな相当な役者だ。
食材はインターネット通販かよつばの個配か近所のスーパーで買う。お米は親戚が作っているのを相場よりはおそらく安く購入しているが、それ以外は特別なルートで買っているようなものはない。
いつも安くて美味しいものを食べていると思う。食べたいものを食べたいだけ食べているとも思う。だから、こういうことについて、僕は「節約」しているという意識はあまりない。
「節約」という語に僕は「我慢している」というニュアンスを感じるけれど、そういうことはしていない。欲しいものを欲しいだけ買っていて、その金額がこの程度にしかならないということだ。
我慢はしていない、けれど、どこか後ろめたさはある。
日本の社会全体でこんな食生活を送ったら、日本経済は確実に破綻してしまうだろう。こんな金額の消費だけでは、インターネット通販は成立しないかもしれない。よつばもスーパーも破綻するのではないか。
そうしたら僕の食生活を支えているものたちは何も手に入らなくなる。
「節約」して安く食材を手に入れることは一般に美徳とされている。賢いことだとされている。でも本当にそうなんだろうか。すくなくとも「美しい」ことなんだろうか。
欲しいものはすべてお金を出せば買うことができ、それらを玄関まで届けてくれる輸送ネットワークがあり、いらなくなったゴミは家の前においておけば回収される。そういう社会システムの上で僕の低金額で充足した生活は成り立っている。
これは貴族だと思う。貴族の生活だと思う。都に居ながらにして全国の優れた食材が手に入る。自分自身では作らず、それを作っている人、運んでいる人の労働に対して、相対的に僅かな対価で美味を得る生活。
こういうことに僕はどこかで後ろめたさを感じている。
恵まれた僕の場所は誰かの「放蕩」ともいえる莫大な労働によって成り立っている。それを「節約」する「我慢して食べる」あるいは「我慢して食べない」なんて冒涜だと僕は思っている。





