まるネコ堂ゼミ・ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』上下巻
(アマゾンで書名検索すると安い古本もあるようです)
〈案内文〉
イベントの案内文なのだから、なにかちょっとこう気の利いたことや意味深なことをほのめかす感じでさらっと書けば、興味につられて人が来てくれるんじゃないかと毎回思うのだけど、結局、妙に力の入った精一杯の案内文を書いてしまって、もうむしろ逆に門を閉ざしてしまうということがあります。ありませんか。今回もまた懲りずに自分の精一杯を無様に投げ出してしまうような長文になってしまった。
気負わずに来ていただけたらいいです。みんなで本を読むのって楽しいです。意外なことが起こったりして面白いです。だから読みましょうというだけのことを素直に書けばいいのに一体どうしてこうなるのかと毎回不思議なので、改めて言いますが、みんなで本を読むのって楽しいし、意外なことも起こるし、面白いので、ぜひ来てください。言ってみればほんとにそれだけのことをやっています。
となると僕の無様な精一杯の行き先として残るのは、今回読むデリダの本への僕なりの敬意と挑発だったのだとわかるわけですが、以下、それを付記しておきます。
デリダが本書でやろうとしていることは、西洋哲学まるごと、あるいは西洋まるごとを乗り越えることなのだけど、デリダによれば、この西洋=哲学はロゴス中心主義的・パロール中心主義的であり、エクリチュール(文字言語、書き言葉)を徹底的に貶めてきた。だからパロール(音声言語、話し言葉)にたいするエクリチュールの劣位を、むしろパロールのなかに、つねにすでにエクリチュールがあるということを示し直すことで、それを成す。
ということで、この本は「説明」できた気に一瞬なるのだけど、もちろんこんなことで説明できる本ではない。これでこの本を読んだことにできるなら、せいぜい「訳者あとがき」を読めば十分で、本書を読むこと(レクチュール)は必要ない。
デリダは、パロール中心主義・ロゴス中心主義を、恐ろしくねちっこく様々な方向で突きまくる。驚異的な「ルソーおたく」ぶりが存分に発揮される第二部では、ルソーを(ルソー以上に?)通ることで、中心主義という根源主義の「不成立」をあぶり出していく。読むことによって書くことによって、ルソーを通り過ぎ、自身の基盤である西洋=哲学までもを通り過ぎようとする。ハイデガーが採掘用のドリルでガリガリと掘り抜こうとした西洋という岩盤が、岩盤の硬さゆえに、民族中心主義的脱落者を生んでしまったのとは対称的な柔らかさで。ハイデガーを横目に見るデリダは、哲学者であるというよりも純朴な「哲学おたく」の風情がある。
どうしても説明にならない説明をしようとしてしまうのは、僕がまだこの本をちゃんと読んでいないからなのだけど、方向を変えて、今はとにかく僕がどうしてこの本が面白かったのかを書いてみる。
たとえば、僕自身がパロール中心主義的であることをあばかれたから。「自分が=話すのを=聞く」ことの絶対性を疑っていなかった。デリダは僕に向けて批判を開始している。これにまずドキドキする。
デリダは、書くことの限界を示しつつ、そのために、読むことの限界を実施する。読むことと書くことの限界付近の挙動をつぶさに露わに「書き記す」というのは驚くべきことである。デリダは自らの立つ西洋を限界で読み、書いた。その痕跡がまざまざと残されている。
デリダは自分が乗る土台そのものへの執拗な揺さぶりを、土台から降りるのではなく、また土台から浮遊するのでもなく、その土台に立ちながら遂行していく。西洋というもの、あるいは西洋語・フランス語というものがその土台を土台として構成している以上、必然的に言語への無理強いが生じる。その軋みと悲鳴に僕は魅了される。
さて。
日本語の僕たちが「先を読む」とき「書く主体(誰が書くのか)」は要請されない。「書くという所作」そのものの不在すら問として起動しない。「先」というのは、ただ「今の向こう=未だ」という開いた方向感だけを示している。つまり「対象」も読まれた「後に」出来することになる。「現前している今の状況から未来を想定する」ことを「先を読む」と言い得るのはなぜか。誰にも、書かれてもいない、書くという所作そのものを前提しないものを、僕たちは読んでいるかのように読める。もちろん、あくまでも「読む」ことの方から言い得ることに過ぎないけれど。
英語で...
April 30, 2018
April 27, 2018
【405】バブアーのコートのリプルーフ
天気が良いのでバブアーのコートのリプルーフ。リプルーフというのは油の入れ直し。油というかワックスというか。
コートはこれ一着しか持ってません。重たくて、ダウンみたいに快適とは言えないのですが、風や雨をきっちり防いでくれるので命を守ってくれる感じが頼もしいです。
バブアーはイギリスのメーカーで、もともとは乗馬や狩猟なんかのときに着る防風防水コートなんですが、これを着て山へは行きません。こんなに森に馴染む色の服を着ていると本職の猟師さんに誤射される危険があります。山へ行くときはオレンジとか目立つ色の服を着て命を守りましょう。
リプルーフの手順の説明をしようかと思ったのだけど、検索すればたくさん出て来るし、そもそもそんなに難しくもないので、かっこよさげな動画を紹介しておきます。動画を見て気分を高めると楽しくできます。
動画では暖炉に火が入っている寒い時期にやってますが、ワックスを湯煎する都合上、暖かい時期のほうがやりやすいです。といっても真夏に、汚れを気にして屋外でやるとなると、ちょっと気分的にしんどくて結局やらずに冬を迎えてしまうので、僕はこの時期から5月ぐらいにやっちゃいます。
ワックスを塗り込む前に水拭きして乾かしておきます。今年は澪が水拭きしてくれたので、楽ができました。ワックスでベタベタになるので庭でやってます。
ワックスを湯煎して溶かします。ちゃんと溶けると水みたいに透明になります。
即日発送...
April 26, 2018
【404】本を読むことについての覚書
実家の片付けをしていたら疲れてきたので、ブログを書く。本について。
僕の住む家、つまりまるネコ堂は、比較的本棚が多いと思う。しかしそれでもこれまでに僕が読んできた本のうちのほんの一部で、極めて厳しい選別を通過したものだけがここにある。したがって、まるネコ堂にある本は面白い本である。一部、僕が読んでいないものもある本もあるけれど。
電子書籍については僕は肯定的である。僕自身は基本的に本は紙に印刷されたものを読むけれど、これはこれまで...
April 24, 2018
【403】『言語5』できました。
『言語5』出来ました。2段組で68ページ。それなりに分厚くなってきました。
文字に残る形で何かを公表するというのはなかなか大変で、毎号ヒヤヒヤです。「最先端の自分を書く」ことが引き起こすものは絶大で、初号を出してからまだ二年しかたってなかったのかと自分でもびっくりしています。長生きしてる気分で...
April 22, 2018
【402】いまさら読む東浩紀『一般意志2.0』
「エッセイ」である。著者自身が冒頭、いきなりそう宣言している。
あらゆる夢と同じように、筆者の夢もまた、断片的で矛盾だらけで、欠陥が多く混乱に満ちている。だから筆者はこの原稿を、論文としてではなく、エッセイとして記すことを選んだ。
その選択はもしかしたら、この二〇年のあいだ人文科学で、というよりも思想や批評の世界で主流だった、注釈と参考文献ばかりが多く過度に防衛的な論文スタイルに慣れた読者には、とてもいいかげんで頼りないものに映...
April 14, 2018
【401】ニフティサーブfmacbgの思い出。
僕の文章力や読解力、そんなものがあるとして、いやあって欲しい、というかこの程度の文章力と読解力なんだけど、そのそれに大きく関わっているなと思うのがニフティサーブのfmacgbというフォーラムである。
ニフティサーブと言うのはパソコン通信である。パソコン通信。なんともたまらないダサさの語感と字面で、書いてるだけで恥ずかしくなるのだけど、インターネットが普及する前は、これだった。
僕が初めて買ったコンピュータはマッキントッシュで、大学...
April 12, 2018
【400】ありふれた本物と「断捨離」という流行について。
最初に断っておくと自戒を込めてです。いや、込めてというより自戒メインです。断捨離という言葉が流行り出した頃からじわじわ感じていたことです。なにしろ僕も10代の頃は馬鹿みたいに消費して、40代になってから大量に捨てましたから。
僕達の日本社会は戦後、高度経済成長を体験しました。どんどんと物が作られました。どんどんと物が買われました。大量生産大量消費です。大量生産大量消費が一体何を大量に生産し、消費したのかというと、一言で言えば、どうで...
April 11, 2018
【399】いまさら読む大塚英志『物語消費論』
文庫も出ている。実は書き飛ばしエッセイ集。
表題の「論」についておさえておきたければ冒頭の書き下ろしを図書館でさらっと読むといい。それぐらいの価値はある。今は教授だけど執筆当時は漫画などのフリーランス編集者だった著者の「これ売れる、これ売れない」という嗅覚直観が、不気味なほどに当たってしまった(ように読める)本。
といったぐらいで、あちこちで語られつくされていると思うので、これ以上、特に書くことはない。以下、個人的なことを書きます。
『ぼのぼの』『アキラ』『銀河英雄伝説』『ノーライフキング』『ホットロード』あたりは(自分で買って読みました)ともかくとしても、『BASTARD!!』『ファイブスターストーリーズ』『アーシアン』といった固有名詞に(自分で買ったり友達に借りたりして読みました
)、変な汗が出る団塊ジュニアである私は、いったいあの頃何を見ていたのか。
編集者である(あった?)大塚英志が編集者として活躍した当時、編集者というものは絶大な権力者だった。興味と直観でメディアという原野を駆けずり回り膨大な量の「トンボ」を収集観察、願わくば新種の「トンボ」の発掘に執念を燃やす。それをオイシイオイシイと次から次へと口に詰め込んだ僕たちは、彼らにとってオイシイオイシイ消費者だった。
当時十代だった僕は、来る日も来る日も小説を読み、漫画を読み、ゲームに耽った。ドラクエなどの発売日はゲーム雑誌で何ヶ月も前からチェックし続けた。しれっと延期されるたびにため息をついた。競うように新刊も買った。新刊コーナーをやっつけた後は、店中の棚を端から端まで舐めるようにチェックした。舐め終わったら次の店に向かった。毎日学校帰りに寄っていた店の本棚は粗方記憶した。あったところに戻さない客のせいで乱れてしまった棚を本来あるべき順に並べなおした。むろんコーナー違いは厳しく正した。好きな作家の作品を勝手に平積み台に陳列して特集した。
そういった甘く切ない僕の大切な夢中の時間が、である。
思いつきの設定や粗筋(だいたいこういうアイデアは編集者が出すものと相場が決まっている)(同書「物語製作機械」)
薄々知ってはいたが、その通りに軽薄な起点から作家を作動させ搾り取った成れの果てを僕は頬張っていたわけだ。ようするに、この本全体がそういう裏話、暴露話なのだが、まぁそれはいい。
それはいいのだけれど、作品や作家を崇め愛していたはずの僕はやがて、作品作家の向う側にある〈大きなマーケティングストーリー〉にまでアクセスしてしまっていた。多感な十代の僕がその深部で気づかぬうちに出会っていたのは、実は脂ぎった編集者だったのだ。だからこそ僕は編集者になってしまったのかもしれない。ゾッとする。
もう一つ。日本という国がどうしてこんなに漫画マンガしているのか。
団塊世代が『少年マガジン』を二五〇万部雑誌に押し上げ、その子供たちが『少年ジャンプ』の四五〇万部を支えている。(略)この世代(団塊世代と団塊ジュニア)としての過剰な共通意識こそが、マーケティングの立場からいえば、「ひっかけやすい」...
April 10, 2018
【398】いまさら読む宮台真司『制服少女たちの選択』
宮台真司『制服少女たちの選択』(1994)。読んでなかったんかーい、と言われそうだけど読んでませんでした。
興味深かった部分を抜き出すと、
実際、(大谷注:売春をする女子高生でもある)孝行娘たちは、「叱ってくれる立派な親」との「良好な関係」を崩したくないから、「親には絶対知られたくないよね、だってカワイソーじゃん」と言いながら、パンツや肉体(のパーツ)を売り続けるのである。[まえがき]
わたしがおどろいたのは、「親バレ」がすこし...