June 21, 2018

【424】結局ネットは検索だ。プッシュよりプル。

通信環境が悪い(低速)からか、ネットの利用法がどんどん遡行する。

結局、検索で調べ物をするのが一番である。知らない言葉をちょっと調べるとか、作ったことがないレシピをちょっと調べるとか。これが一番役に立つ。だいたいの事項についてのだいたいの内容が手軽にわかる。

知識に対するアプローチのタイプで言えば、辞書をひくとか、図書館で調べ物をするとかと同じで、知りたいと思うことを引っ張ってくるプル型である。ちっとも先端的じゃない昔ながらの知である。

フェイスブックやツイッターといったSNSは、知りたいとも思わない情報を手元に押し付けてくるプッシュ型で、最初はこれぞインターネットという感じがするのだけれど、割と簡単に飽きる。もともと知りたいとも思っていないことなんだから飽和する。プルより新しいといっても、テレビCMやダイレクトメールと同じ程度の新しさと軽薄さである。組織されない羅列の噴射である。

出会いはいつでも、プッシュである。〈始まる〉とは〈向こうからやってくること〉である。しかし、それは始まりの一瞬で、継続していくのはプルである。プルの方が長い。興味というのはプルを維持すること。引っ張り続けることである。

ネットにはだいたいのことについて、だいたいのことが書かれていて、簡単に取り出せる。しばらく引っ張っていると、限界がくる。それ以上のことが知りたくなる。自分で試して検証する。このあたりから俄然面白くなってくる。

いずれにせよ、ネットは検索が良い。検索ぐらいが良い。手軽が良い。それがネットの良いところである。ネットの楽しいところである。

June 15, 2018

【423】深刻さと重大さの違い。手応え主義が見えなくするもの。

深刻さと重大さは違う。

深刻で重大なこと。
深刻ではないけど重大なこと。
深刻だけど重大ではないこと。
深刻でも重大でもないこと。

こういう2✕2のマトリクスで考える考え方のポイントは、二番目と三番目の扱いにある。

つまり「深刻ではないけど重大なこと」と「深刻だけど重大ではないこと」 で、僕は前者を優位に後者を劣位に置く。

深刻さは手応え主義者に愛用される。物事の重大さを情感への訴え度に還元する方法はわかりやすく、測定方法が簡単であるからだ。

それが僕には、泣けるか泣けないかで映画の良し悪しを決めるような雑さを感じてしまう。物事の重大さというのは、〈その瞬間〉の情感の振れだけでは測ることができないと思うからだ。

手応え主義者は「どんなことも〈その瞬間〉にしか感じ取ることができないではないか」と反論するだろうが、〈その瞬間〉以外が、あるのだ。

それはなにか。

記憶、保留、可能性、潜在といった言葉の系統からなる言語領域を思い描くことができれば「そこにあると思う」「ありそうな気がする」「あったかもしれない」「あったはず」のそれらが見出される。

深刻さは「出来した出来事」についての象限しか持たないが、重大さは「出来しなかった出来事」にも影を映すことがある。

June 12, 2018

【催し】言葉の表出、春合宿2019

庭で。(以下、写真は2017年春の合宿より)
5回目の表出合宿。今まで3-4日間で開いてきましたが初めて1週間での開催です。

天気が良いとこんな感じ。
平日も含みます。それなら仕事で参加できないと思われるかもしれませんが、最終日の読む時間に参加できれば、仕事に行っても、遊びに行っても、別の場所で泊まっても問題ない。もちろんずっと居ても自由です。

二階は3部屋。
書いている時間だけが書くことではない、同じ場所にいないのに同じ合宿にいる感じがする。今まで開催してきてそれを目の当たりにしてきた気がします。

2階の日当たりの良い南側で。

===
言葉による表出(表現)に挑みます。「書く」ことです。
おやつ。
小説、詩、随筆、戯曲、映画脚本、評論、論文、歌詞、キャッチコピーなど言葉の表出であれば何でも。

大量の「ナニカ」を費やして、ほんの少しでも表出できたらそれはすごいことだと思います。自分の言葉を自分の表に出すという「契機をつかむ」ことができれば。
工房で書く人も。

1 初日(17日)の15時からオープニングミーティングをします。
  参加必須ではありませんが、できればご参加ください。未定ですが主催者でなにかトークなどするかもしれません。

2 最終日(23日)の8時から20時まで、それぞれが表出した作品を発表し、全員で「ただ」読んでみます。

3 それ以外の時間は自由です。書いたり読んだり話したり聞いたり寝たり起きたり、ただ居たり居なかったり。
最後の読む時間。

===
2019年3月17日(日)15:00~3月23日(土)20:00
 ※最終日の終了時間は、延長される場合もあります。 
自分の筆記用具をお持ち下さい。プリンタ・印刷用紙はあります。

場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
    宿泊は、雑魚寝になります。通いOK。
    前泊・後泊可能です。ご連絡ください。
注 意:猫がいます。アレルギーの方はご相談下さい。
定 員:5名
参加費:35,000円
    まるネコ堂宿泊費と食事代込。アルコール代は別途投げ銭歓迎。
主 催:大谷隆、山根澪、小林健司
お申込:mio.yamane@gmail.com (山根) まで
    お名前
    電話番号
    その他何かあれば

※23日終了後、お時間あれば後泊ください。最終日終了後は体力・集中力を消耗した状態になるので、毎回見送りながら心配になります。クーリングダウンも含めてよければ一晩休憩していってください。

【関連情報】
言葉の表出、夏合宿 2016
言葉の表出、冬合宿 2016
言葉の表出、春合宿 2017
言葉の表出、夏合宿 2017
雑誌『言語』 5号発売中。
読む・書く・残す探求ゼミ

June 10, 2018

【催し】試して、繰り返して、面白がる音読三昧の30時間合宿

小林健司さんの音読の特徴は、
密室の時間の自覚性にあると僕は思う。

読むということにも書くということにも、
詩にも絵にもある、あの密室の時間のこと。

密室に響く自分だけの音読は、
思う存分、納得行くまで、試される。
技術、技法という言葉が精確に使われる心地よい反復の時間。

密閉されているからこそ、
扉が開いたときに生じる外気への抵抗と外気の吸収が待ち遠しい。

合宿の間ずっと、いたるところに密室が発生するそのこと自体、
得難い出来事だと思う。

大谷 隆

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▶講 師:小林健司
▶内 容:課題図書に挑んだり、自分の好きな本に浸ったりします。
▶持ち物:各自音読したい本をお持ちください。
     まるネコ堂の蔵書から選んでもOKです。

▶日 程:2018年7月28日(土)、29日(日)

▶時 間:
 28日(土):11時 講師の話から開始
 29日(日):17時頃 終了
 ※終了時間が遅れる可能性があります。

▶参加費:15,000円(宿泊・食事込み)
▶場 所:まるネコ堂
    京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167
    アクセス

▶食 事:まるネコ堂で作って食べます。
▶宿 泊:まるネコ堂で宿泊。雑魚寝です。通いも可。
▶定 員:5人程度
▶注 意:猫がいます。アレルギーの方はご相談ください。
▶主 催:大谷 隆

▶お申込:marunekodo@gmail.com までメールにて。
 ・お名前
 ・電話番号
 ・その他(何かあればご自由に)

<講師 小林健司のプロフィール>
愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。ソーシャルビジネスの創業支援をするNPOでの勤務を経て独立し、大阪を中心に活動。2016年、滋賀県(琵琶湖の西北西あたり)にセルフビルドのログハウスを建て、2017年に第一子(男の子)が生れる。近所でバイトをしたり、執筆や子育てをしたり家の裏にある山や琵琶湖を散歩したりしながら、新しい暮らしをつくっているところ。自他ともに認める音読マニアで音読の会を開催。
人とことばの研究室 http://hitotookane.blogspot.jp/

<主催 大谷隆のプロフィール>
宇治市出身。「まるネコ堂」代表。編集プロダクションとNPO出版部勤務を経て2010年5月独立。自宅のまるネコ堂で、読む書く残す探求ゼミ、講読ゼミ、雑誌「言語」発行、考え事などを庭をうろつきながらしています。
言葉の場所「まるネコ堂」 http://marunekodoblog.blogspot.jp/
まるネコ堂ゼミ http://marunekodosemi.blogspot.jp/

June 6, 2018

【422】日本語の〈起源〉。言語の〈起源〉はあるのか。

ほぼ日の「吉本隆明の183講演」にA016「宗教としての天皇制」というのがある。1970年の講演だから、僕が生まれる1年ほど前。天皇について語るというのは、だいたいいつの時代もスリリングだと思うけれど、この講演もなかなかスリリングで、とても面白かった。

このテキスト化をしたとき初めて僕は〈起源〉というもの自体へ興味を持ち始めたのかもしれない。吉本が語る「天皇制の起源」「種族(民族)としての日本人の起原」のうち、特に僕が面白いというか、そう言われたらそうだと思った部分が、
種族としての日本人ってやつは、いずれにせよ、大変、幾重(いくじゅう?)にも混血にしていて正体がわからなくなるほど混血しているわけです。だから、いずれ北九州起源と考えても朝鮮から来たんだと考えてもまったくおんなじことだろうというふうに思われます。だから、そういうことは騎馬民族説ってなものをとろうと騎馬民族説を否定しようと、まったく意味は無いだろうというふうに僕には思われます。つまり、代々大陸との混血が著しいわけですし、また南方的要素をとってきては東南アジアとか、インドネシアとか、そちらの方からの混血が著しいわけですし、その混血の仕方もまた相当古くまでさかのぼることができるわけです。そうすると、種族としての日本人というのは決して、別に純血種でもなければなんでもないわけで、別の意味で言えば、世界で一番混血が著しい人種だって言えば言えるわけです。
「世界で一番混血が著しい人種」というのは、僕の関心では「世界で一番混血が著しい言語」ということになるのだけれど、それはまさしくそうだと思った。

僕は日本語以外の言語はほぼわからない。少なくとも精通しているとは全く言えない。それにもかかわらず「世界で一番」なんて思えるのが不思議なのだけれど、でもやっぱり僕は日本語という言語は「世界で一番混血が著しい」圧倒的に「分散した〈起源〉」を持っていると思う。現代の日本語を注意深く見る限り僕にはそうとしか思えない。この一見すると語義矛盾しているように見える「分散した起源」という〈起源〉を持つ日本語が楽しく嬉しいし、だからこそ日本語というやつとずっと付き合っていきたいと強く思っている。

もう少し突っ込んで言うと、そもそも〈起源〉のイメージというのが「ある一点から始まって派生していく」という時点ですでに日本的ではないというか、言ってしまえば西欧的、西洋的なのだと思う。西洋語において、その一点として象徴的にインド・ヨーロッパ祖語があたっている。逆の言い方をすれば、インド・ヨーロッパ祖語から派生したと考えられる言語(インド・ヨーロッパ語族)において考える考え方そのものがそのような「単一の起源」のイメージを持っているのだとも言えると思う。

海に流れ込む川の水のすべてがどこかの山の小さなある一つの泉から湧き出ている、なんてことは理念的にも物理的にもありえないし、たとえその川が他の川から一つも合わさっていなくたって、いたるところに降った雨や雪がその都度流れ込んでいるわけで、河口の時点で泉の水なんてどんだけあるんだよって言うのが僕の〈起源〉のイメージだからウィキペディアの「インド・ヨーロッパ語族」の項にあるインド・ヨーロッパ祖語から派生していく樹形図は、とても不思議なものというか、まるで逆さに世界を見ているように見える。

そういったインド・ヨーロッパ語族的な「起源」の考え方を持った言語にすらも、日本語の〈起源〉が分散されていると考えると、例えば「大和言葉」あたりを取り出してきて「日本語の祖」として信奉するような考え方をする人が一定割合、現代日本語の話者に含まれていることも理解できる。つまり、そういった人たちは、西洋的あるいはインド・ヨーロッパ語族的な考え方をする日本語話者というわけだ。このねじれ具合が強烈に日本語的で、滑稽ですらあるのだけれど、こんなどうにも「手に負えない」感じすらも、僕にとっての日本語の魅力になっている。

June 5, 2018

【421】思い込みは〈どこで〉するのか。

「謎のらっきょ」というものが我が家にある。由来を解き明かしたところで謎の謎性は減じない。実家で発掘されたらっきょの甘酢漬けなのだけど、それがいつ漬けられ始めたのかわからない。黒く変色した見た目はらっきょに見えなくもないけれど、こういうらっきょを見たことがないので、それがらっきょだとわかるには少し時間がかかる。食べられるものなのかどうなのかを見た目で判定することは難しいから、結局食べて判断することになる。

で、食べる。と、ある衝撃が走る。

ものすごく胡散臭いけれど、らっきょであることは認められるそれを恐る恐る食べてみると、なんとも怪しい食感が待ち受けている。ぎょっとするほど柔らかいのである。新商品「く・ち・ど・け」と名付けたくなるほどに。

この食感に対する衝撃について感想を求められた人の多くはたぶんこう言うはずだ。

「らっきょってシャキシャキしているものだと思い込んでいた」

食感の裏切りに対して、このように「思い込み」という言葉を使う。では、思い込みとは、〈どこで〉思い込んでいるのか。あるいは〈どこへ〉思い込んでいるのか。

「思い込む」という言葉は、一般に、思考的なあるいは頭脳的なイメージが先行するが、この新らっきょ「く・ち・ど・け」の場合は、果たして思考的で頭脳的な領域〈で〉思い込みは発生していたのであろうか。あるいは、思考的で頭脳的な領域〈に〉思い込んでいたと言い得るのだろうか。

むしろ感覚的で身体的な領域〈で〉、あるいは感覚的な身体的な領域〈に〉思い込んでいたという方が適切なのではないだろうか。

つまり、「体が覚え込んだこと」という意味で「思い込む」という言葉は使われているのではないか。

だとしたら、しばしば「思い込む」というという言葉によってやり玉に挙がる「悪しき先入観」とでも言うべきものの実態は「体が覚え込んだこと」なのではないか。「頭」ではなく。

「思い込む」という言葉によって暗黙に犯人扱いされている「頭脳的な処理」は、むしろ冤罪の被害者であって、その真犯人は別に存在するのではないか。

「思い込む」という言葉を否定的に使いたいという欲望こそが真犯人であり、事後的に「頭脳的な領域」が犯人扱いされているのではないか。

「自分は頭が悪い」と〈思い込んで〉いる人による、自らが自らに対して抱える後ろめたさの言い逃れとしての偽証が、「頭」を犯人に仕立て上げようとしているのではないか。

さて、興味深いのは、こういったことが端的に言語の問題であるということだ。

「思い込み」「頭脳的」「体が覚え込む」「頭の良し悪し」といった言葉による連関が、ある同一の意識の中で強いつながりを持っていること自体に、ある輪郭が生じている。なぜなら、そういった連関を持たない他者は現実に存在し、その他者の言語系では、一つの問題を作り上げないからだ。その他者は「自分は頭が悪い」と思っていない。この問題の輪郭はあくまでも主体が形成している。犯人以外は輪郭を形成できない。主体は形成されない。

ある言葉の連関に対し、ある反応を引き起こすこと自体が、言語というものが必然的に持っている意識の問題であって、どのような言語系に強い連関が発生するのかということに〈自己〉の輪郭が現れている。一連の言葉に対してある強い連携があるとしたら、そこに〈あなた〉が宿っているわけで、そのうちのいくつかが〈恥〉であり、別のいくつかが〈誇り〉であったり、〈望み〉であったりするのである。