June 5, 2018

【421】思い込みは〈どこで〉するのか。

「謎のらっきょ」というものが我が家にある。由来を解き明かしたところで謎の謎性は減じない。実家で発掘されたらっきょの甘酢漬けなのだけど、それがいつ漬けられ始めたのかわからない。黒く変色した見た目はらっきょに見えなくもないけれど、こういうらっきょを見たことがないので、それがらっきょだとわかるには少し時間がかかる。食べられるものなのかどうなのかを見た目で判定することは難しいから、結局食べて判断することになる。

で、食べる。と、ある衝撃が走る。

ものすごく胡散臭いけれど、らっきょであることは認められるそれを恐る恐る食べてみると、なんとも怪しい食感が待ち受けている。ぎょっとするほど柔らかいのである。新商品「く・ち・ど・け」と名付けたくなるほどに。

この食感に対する衝撃について感想を求められた人の多くはたぶんこう言うはずだ。

「らっきょってシャキシャキしているものだと思い込んでいた」

食感の裏切りに対して、このように「思い込み」という言葉を使う。では、思い込みとは、〈どこで〉思い込んでいるのか。あるいは〈どこへ〉思い込んでいるのか。

「思い込む」という言葉は、一般に、思考的なあるいは頭脳的なイメージが先行するが、この新らっきょ「く・ち・ど・け」の場合は、果たして思考的で頭脳的な領域〈で〉思い込みは発生していたのであろうか。あるいは、思考的で頭脳的な領域〈に〉思い込んでいたと言い得るのだろうか。

むしろ感覚的で身体的な領域〈で〉、あるいは感覚的な身体的な領域〈に〉思い込んでいたという方が適切なのではないだろうか。

つまり、「体が覚え込んだこと」という意味で「思い込む」という言葉は使われているのではないか。

だとしたら、しばしば「思い込む」というという言葉によってやり玉に挙がる「悪しき先入観」とでも言うべきものの実態は「体が覚え込んだこと」なのではないか。「頭」ではなく。

「思い込む」という言葉によって暗黙に犯人扱いされている「頭脳的な処理」は、むしろ冤罪の被害者であって、その真犯人は別に存在するのではないか。

「思い込む」という言葉を否定的に使いたいという欲望こそが真犯人であり、事後的に「頭脳的な領域」が犯人扱いされているのではないか。

「自分は頭が悪い」と〈思い込んで〉いる人による、自らが自らに対して抱える後ろめたさの言い逃れとしての偽証が、「頭」を犯人に仕立て上げようとしているのではないか。

さて、興味深いのは、こういったことが端的に言語の問題であるということだ。

「思い込み」「頭脳的」「体が覚え込む」「頭の良し悪し」といった言葉による連関が、ある同一の意識の中で強いつながりを持っていること自体に、ある輪郭が生じている。なぜなら、そういった連関を持たない他者は現実に存在し、その他者の言語系では、一つの問題を作り上げないからだ。その他者は「自分は頭が悪い」と思っていない。この問題の輪郭はあくまでも主体が形成している。犯人以外は輪郭を形成できない。主体は形成されない。

ある言葉の連関に対し、ある反応を引き起こすこと自体が、言語というものが必然的に持っている意識の問題であって、どのような言語系に強い連関が発生するのかということに〈自己〉の輪郭が現れている。一連の言葉に対してある強い連携があるとしたら、そこに〈あなた〉が宿っているわけで、そのうちのいくつかが〈恥〉であり、別のいくつかが〈誇り〉であったり、〈望み〉であったりするのである。



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