このテキスト化をしたとき初めて僕は〈起源〉というもの自体へ興味を持ち始めたのかもしれない。吉本が語る「天皇制の起源」「種族(民族)としての日本人の起原」のうち、特に僕が面白いというか、そう言われたらそうだと思った部分が、
種族としての日本人ってやつは、いずれにせよ、大変、幾重(いくじゅう?)にも混血にしていて正体がわからなくなるほど混血しているわけです。だから、いずれ北九州起源と考えても朝鮮から来たんだと考えてもまったくおんなじことだろうというふうに思われます。だから、そういうことは騎馬民族説ってなものをとろうと騎馬民族説を否定しようと、まったく意味は無いだろうというふうに僕には思われます。つまり、代々大陸との混血が著しいわけですし、また南方的要素をとってきては東南アジアとか、インドネシアとか、そちらの方からの混血が著しいわけですし、その混血の仕方もまた相当古くまでさかのぼることができるわけです。そうすると、種族としての日本人というのは決して、別に純血種でもなければなんでもないわけで、別の意味で言えば、世界で一番混血が著しい人種だって言えば言えるわけです。「世界で一番混血が著しい人種」というのは、僕の関心では「世界で一番混血が著しい言語」ということになるのだけれど、それはまさしくそうだと思った。
僕は日本語以外の言語はほぼわからない。少なくとも精通しているとは全く言えない。それにもかかわらず「世界で一番」なんて思えるのが不思議なのだけれど、でもやっぱり僕は日本語という言語は「世界で一番混血が著しい」圧倒的に「分散した〈起源〉」を持っていると思う。現代の日本語を注意深く見る限り僕にはそうとしか思えない。この一見すると語義矛盾しているように見える「分散した起源」という〈起源〉を持つ日本語が楽しく嬉しいし、だからこそ日本語というやつとずっと付き合っていきたいと強く思っている。
もう少し突っ込んで言うと、そもそも〈起源〉のイメージというのが「ある一点から始まって派生していく」という時点ですでに日本的ではないというか、言ってしまえば西欧的、西洋的なのだと思う。西洋語において、その一点として象徴的にインド・ヨーロッパ祖語があたっている。逆の言い方をすれば、インド・ヨーロッパ祖語から派生したと考えられる言語(インド・ヨーロッパ語族)において考える考え方そのものがそのような「単一の起源」のイメージを持っているのだとも言えると思う。
海に流れ込む川の水のすべてがどこかの山の小さなある一つの泉から湧き出ている、なんてことは理念的にも物理的にもありえないし、たとえその川が他の川から一つも合わさっていなくたって、いたるところに降った雨や雪がその都度流れ込んでいるわけで、河口の時点で泉の水なんてどんだけあるんだよって言うのが僕の〈起源〉のイメージだからウィキペディアの「インド・ヨーロッパ語族」の項にあるインド・ヨーロッパ祖語から派生していく樹形図は、とても不思議なものというか、まるで逆さに世界を見ているように見える。