参加者5人、うち一人途中退出。会場参加が3人。
10分と60分をやる。
改めて書くと、文章筋トレというのは文章を「筋トレ」という比喩で捉えてやってみたらどうなるかという試みだ。これまでのところわかってきたのは「筋肉」としての比喩が通じる範囲でなにかしらの筋力は増強される。
この筋肉としての比喩が通じる範囲というところが具体的にどのような範囲なのか。少なくとも「言葉の正確な選び方」や「文章のわかりやすさ」「イメージのしやすさ」と言った「外形(シェイプ)」にとどまるようなものではない。
では、なにが「筋肉」なのか。どれぐらいの深度を持つのか。
書くというときにそもそもどんな「筋肉」が必要なのだろう。
たとえば、書きたいと思っている何かを書こうとするときにどんな「筋肉」が必要なのだろうか。いや、それ以上に、そもそも書きたいと思うためにはどんな「筋肉」が必要なのだろうか。こういったこと自体がむしろ鍛えられている気がする。
褒められたくて、報酬が得たくて、書くのであれば、こういった筋力は必要ない。正確には筋力の比喩が必要ない。どうすれば評価されるかという情報収集とそのアウトプットの仕方の方がむしろ重要で、効果がある。書くことそのものは自明で、書くことを疑う必要が無いほうが情報収集とその加工に集中できる。書くことそのものへの筋力などという比喩で、その前提的存在を露出させるのは逆効果だ。疑わずにやるほうが「経済的」だ。
そうではなく、逆説的ではあるが「たんに書くということはどういうことか」「なぜ書くのか」という「疑い」を持ちつつ書くためにはどんな筋肉がいるのか。その筋肉が鍛えられていく。
書くという態勢を自らで保つために必要な筋肉がまず必要だ。そういうものがまず鍛えられる。これは必ずしも文字数などでカウントできるものではないし、書かれた言葉の良し悪しによって短絡的に評価できるものでもない。評価によって書くというのは報酬によって書くことと同じだ。
理由は明瞭ではないのに、この文章はなんだか、なにかあるなと思うような文章は、そういった書くことの前提としての態勢を保つ(保留する)筋力があるのではないか。そこに保たれている姿勢から読み手は何かを受け取るのではないか。
態勢を保つというのはもちろん地面に固定するようなものではなく、その地面その地面に応じて自分の全体の筋肉をバランスさせることが必要だ。特定の筋肉というよりは筋肉と骨格の連携のことだ。書くことにとどまらない表現全般にまで拡張できるような、「まさにその状況」に留まる体全体の有り様のことだ。それによって、まさにその、表され現されるまで保つことを自らに求め続けるその状況そのものに留まることができる。破滅と幸福とが混交したその状況に。
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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●12月15日から21日:言葉の表出、冬合宿2020
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●定期:文章筋トレ
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●月一回:『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
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●まるネコ堂芸術祭、準備ページ
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