9月に終了した『中動態の世界』ゼミのメッセンジャーグループで、その後もぽつりぽつりと投稿があって、ゼミをきっかけにして新たな本を読み始めたり、新しいことを考えたり、そういうことが起こっているので、参加メンバーでそれぞれ「ゼミのその後」のことを話す会をやってみた。
僕自身、この本はゼミをやる前に思っていたよりもずっと僕自身の場所に重なっているところがあると、ゼミが終わったあとに思うようになった。それは吉本隆明の自己表出の問題で、このことは意外だった。僕以外の人はおそらくそう思わないかもしれないが、僕には中動態は自己表出と大きく関わりがあるように感じる。
その後の会のために、ゼミのときのようにレジュメを準備した。以下に掲載する。
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『中動態の世界』ゼミその後
2020年11月29日 大谷
中動態
中動態的に世界を捉え、感じ、考えるようになった。という文章の最初の「中動態的」という言葉が僕の言葉として僕にイメージを与えるというだけで、ことの重大性はわかる。中動態とはどういうものかと訊かれれば、僕のイメージに一番しっくりくる説明は、やはり、バンヴェニストだ。(引用は『中動態の世界』)
能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の內部にある
「主語」や「動詞」といった西洋語由来の文法語を使わないとすれば、細江の、
動作が行為者をさらずその影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質のもの
でもいい。どちらにせよ僕にはこれは、自己疎外への抵抗として、有意義だ。
自己疎外
自分が言ったこと、考えたこと、生み出したものが、自分を取り除けてしまい、自分と対立していくというヘーゲルの自己疎外の問題は大きく、僕の考える責任や自由といったものとも関係している。安易に社会批判をする人はだいたいその社会から自分を取り除けてあたかも自分はその社会に対してなんら加担していないかのように振る舞う。むしろ自己の責任を回避するための批判にすら見える。
吉本はヘーゲルの自己疎外が社会制度として行き着いた資本主義に、マルクスのいう「社会からの疎外」が該当すると読む。そこでは、労働者が作ったものは最初から資本家のものであり、労働者のものではない。労働者は自分がつくったものを、自分でお金を出して手に入れなければならない。そういった疎外に対して、その状況そのものを「疎外し返す」こととして、吉本は自己表出を見出した。
自己表出
自分がつくったものに自分の現実のかけらを、そのままのかたちではなく見えない構造として、入れていく。その構造が自己表出だ。自己表出のない創造は、自己疎外にしかならないし、現代においては、社会からの疎外を生む。僕がライターとして文章を書き続けられなかったのは結局の所、頼まれ仕事として文章を書いていたことに端を発し、自己疎外および社会からの疎外の状況に入ってしまったからだ。無責任な社会批判として、僕の文章から僕が取り除けられていくことに、僕自身が耐えきれなくなったのだろう。だからこそ吉本の言葉に強く打たれた。
ところで、この自己表出の構造はまさに中動態的だ。自分が作ったものに自分の現実のかけらを、そのものとしてではなく、構造として、入れ込んでいくその構造が自己表出だとしたら、その構造を特徴づけるのは、「主語がその座となるような」「その影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質」と驚くほど一致する。「何らかの形式において」という細江の繊細な言葉遣いに改めて驚く。「ホームレスについて書いたから、自分はホームレス問題の解決に寄与しているのだ」などという短絡的な話ではない。むしろそれが疎外そのものだ。
契機
吉本は自己表出の問題にもう一つ重要な観点を提供してくれる。〈契機〉だ。社会からの疎外の情況を疎外し返すためには、「あえて世界の進むべくして進む方向に従わないという思想のイメージ」[吉本隆明講演「芸術と疎外」]が必要で、これはほおっておくとそうなっていくその流れに従わず「〈契機〉をつかむ」ことと同義だ。そしてこれも『中動態の世界』の言葉で言えば「仕方なく」で済まさないということに通じる。
倫理
ここまで書いてきて深いところにあるものとして倫理という言葉を感じる。僕にとって倫理というのは、こういった、言ってみれば、中動態的で自己表出の構造を支える、ある〈明るさ〉だ。正義や善といった言葉の一般的意味と倫理は異なっている感じがある。僕の楽観主義的な面の源泉はこの倫理としての〈明るさ〉だと思う。この〈明るさ〉は特定の光源を持たない。空間自体が明るい。
倫理という共通項でスピノザについて、ここからなにか書けるだろうか。『中動態の世界』でスピノザを知った以降、「スピノザはいいな」と僕は何度となく思った。今なら何がどういいのかを説明できるだろうか。
神こそが唯一存在している「実体」であり、これがさまざまな仕方で「変状」することによって諸々の個物が現れる。[『中動態の世界』239]
この神は西洋的には異端だ。ブッダも悪魔も毛虫の糞も人間もなにもかも神だという哲学に西洋的一神教の信仰は耐えきれない。というよりも、宗教的信仰というものが耐えきれないのかもしれない。人が信じ仰ぎ見るための崇高さのようなものを拒絶している。このあたりからしてもう僕は「スピノザ、いいな」と思い始めている。
信仰をなにか「甘い、スイートな」ものとして捉えるというのが僕には嘘くさく思えてくるからかもしれない。「伝統的な日本」というものに対して「スイートな」思いを寄りかからせる「信仰的」思考も好きではない。どんな社会であれ、スイートなものがあるならビターなものもあるし、糞や憎悪や理不尽もあるとどうしても思えてくるから、「伝統的な日本」という取り上げ方の恣意性にうんざりするのだと思う。話が逸れた。ともかく、スピノザの神は宗教や信仰ではなく、あえて一般的に理解可能な範囲でジャンル分けするとすればやはり哲学だ。
西洋的一神教は、僕がどうしてもうまく捉えることができないもののうちの一つだ。要するに僕が非西洋なのだということだろう。非西洋を東洋と名指しすれば、僕の疑問は東洋を代表しているとも言えるのではないかと思う。
西洋的一神教の何が捉えられないかというと、その神が世界には存在せず、世界の「外」にあるということだ。別の言葉では「超越」的な存在だということになる。唯一絶対、世界を超越している。これが僕には難しい。
僕にとって世界はすべてだ。その世界の外側にあって、世界と対置できるものというのが、まずイメージできない。そして、つまり、「イメージする」ということ自体が、神そのものを捉えることから離れてしまうということでもある。あるいは人間ごときに神を捉えることなどできない、ということかもしれない。どちらにせよ、僕にはどうにもならないということを予め定義づけられている気分になる。
この一神教的神に対してスピノザの神は違う。神がすなわち世界なのだ。超越ではなく内在だ。どちらかというと世界のほうが無い。つまり、僕も毛虫の糞もブッダも神なのだ。こっちのほうがずっとイメージしやすいし、この「全て」という感じも「全」感があっていい。西洋の一神教は「全知全能」と言いながら「全」感があまりない。どころか、むしろ恣意的で選択的に思える。このあたりも、スピノザ、いいなと思うのだ。
そしてスピノザの言う、毛虫の糞も異教の教祖も僕もあなたも神なんだということに僕は〈明るさ〉を感じ、そのことを指し示した本のタイトルが「倫理」を意味するというのも納得がいく。慈悲も無慈悲も、理不尽も幸福も、あなたもわたしも、神なのだという〈明るさ〉で考えたとき、全ては中動態的に、自らを座として、自分を含んで、いると思える。とてもいい。「エチカ」をきちんと読むのが楽しみだし、どうやって読もうか今から少しずつ企んでいる。「エチカ」とともに過ごしたい。
和紙
和紙は僕のイメージとしてずっとある。吉本が言語を織物で喩えるように僕はたぶん言語を、思考を、感覚を、生活を、組織を、現実を、表現を、和紙のイメージで見る。短かったり長かったり太かったり細かったりするバラバラの繊維がバラバラの方向を向きながら在ることで一枚の紙が漉き上がる。一つの繊維に着目すれば、それは海をゆく船の航跡でもある。一つの方向や二つの方向に揃っているわけではなく、バラバラの方向にあることで在る在り方だ。僕は僕の中に様々なバラバラのものをバラバラのまま置いてきた。揃えないでおくことをなにかの使命のようにすら感じていた気がする。それらのバラバラの繊維がようやく、バラバラなままで様々な点で接触することで、柔軟に機能し始めてきている実感がある。これは本当にいい。
以上