つい最近読んだのだけど、この本て実はこんな本だったのかと結構驚く。現代哲学からすると、ものすごくのんびりしている。主語は「私」で「我々」ではない。ルソーの「告白」のように、自分の生い立ちから語っている。半ば小説として読める。その流れの中で、例の哲学史上もっとも有名といってもよい一節が現れる。
かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考える「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。そうして「私は考える、それ故に私は有る」というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第一原理として、ためらうことなく受け取ることができる、と私は判断した。
(落合太郎訳)
主語が「私」であるのは「私は考える、それ故に私は有る」と書く以上、必然性があった。私にとってはそうとしか言えない、私にとって疑う余地がないことを、最初から他者と共有したものとして扱えない。「我々が」という文体では、結論に到達することはおろか、思惟すら始められない。現代からこの本を照らすとき、光はそのように差し込んでいく。「我々」の中から「私」を抽出し特別な位置に置くために、デカルトはすべてを疑わざるを得なかった(異端とされる危険を犯しても)。
自らの方法序説を書き始めることには、あるいは、その契機を掴むことには、「我々」が入る余地はない。
大陸合理主義の立場にいまさら立つということはありえないけれど、僕はこの本は良い本だと思う。できることならば、「僕たちは」、「私」の方法序説を、書くとまでは行かないにしても、語ったり、考えたり、思ったり、感じたりすれば良いと思う。
次回の「本好きの時間」は10月5日(金)夜です。