January 21, 2021

【774】「イヤイヤ期」と呼ばれるもの。人間への挑戦。自然がやってくる。

・アラタへのイライラについて。

・パンが食べたいというのは、いい。玉子を食べたいというのも、いい。パンと玉子を載せる皿を運びたいというのも、注意を要するが、いい。ただ、その前に泥だらけの手を洗ってほしいだけなのだが、それをどうしてもやらない。絵本を読むのもいい。積み木をするのもお絵かきをするのもいい。散歩に行くのもいい。ただその前にパンツとズボンを履いてほしいだけなのだ。それをやろうとしない。全力で拒否する。それに対してイライラする。

・できないことを要求しているわけではない。「できなさ」という幼さ、稚拙さに対してのイライラはない。できないことをやろうとしている姿を見るのはむしろ喜ばしいぐらいだ。問題は、できるはずのことをやらないようにしている、少なくともそう見えるということだ。手を洗うのもパンツやズボンを履くのも、もうすでにできないことではない。これまでに何度となくできているのだ。それを「やらない」。それにイライラする。できるイメージがすでに僕にあって、そのイメージが意識的に実行されないことにイライラしている。できなかった時期は僕が濡れ布巾で手を拭っていたし、パンツもズボンも履かせていた。それに対していらつくことはなかった。

・手を洗うことやパンツやズボンを履くことは、人間にとって必要なことなのだろうか。少なくとも現代人にとっては必要だ。手を洗わなければ許容できないほどの高いリスクで感染症にかかり小児が死ぬ確率は上がる。パンツやズボンなどの衣服を身に付けなくても生きていけるような温暖な気候の範囲に、我が家はない。いずれにせよ、現代人として受け入れがたいレベルの可能性として、死ぬということだ。それが「手を洗う」ことや「パンツやズボン」を履くことの「現代人には必要」な意味となる。

・逆に言えば、「現代人として」「生きて」いかなければ、食事の前に手を洗わないことやパンツやズボンをはかないことを許容できることになる。しかし、それは、どの時代まで遡ることになるのか。そして、その結果、生存圏はどれほど限られるのだろうか。どれぐらい死ぬのか。

・アラタにとって未知なのは「手を洗うこと」ではない。もちろん「パンを食べること」でもない。それらに順序があるということだ。「パンを食べる」前に「手を洗う」という現代的な人間における順序がわからない。着衣もそうだ。逆に言えば、一連の手順としてすでに理解していること、例えば「コーヒー豆を挽いてコーヒーを淹れる」がそうで、これは大人から見ると比較的高度な理解力が必要そうに思えるものだが、意外にも、その過程の中でいくつか自分では難しい手順があるものの、全体的な順序はきっちりと従ってやることができる。一連の手続きが総合的に理解されているのだ。つまり、一連かどうか。それとこれとがどういう関係があり、どういう順序になるのか。そのわかりにくさに人間の文化的水準があると言えるかもしれない。

・手洗いや着衣といった具体的事象は我が家において生じた衝突であって、他の家庭ではこれではない現実的事象として生じる。しかし、ほぼ確実に言えるのは、どこへどれぐらい向かったところで、結局どこかで限界が来るということだ。親の寛容さの限界にぶつかるまで子は突き進むだけだ。それがどこであれ。この事態は、そういう意味である一定の普遍性を持っている。「イヤイヤ期」と呼ばれる程度には。

・子育てから離れて見ればこの種の人間的規範はいくらでもある。「車が走っている道に走り出てはいけない」「産卵期の毒蛇にいたずらしてはいけない」「地震があったらすぐに海から離れなくてはならない」。こういったことも、ある場所、ある時代における人為的文化的人間的規範であって、守られなければ、許容できないレベルで人間集団の致死率が上がる。そういった集団的生物である人間として共有する普遍性のことだ。こういう規範を「守らない」ということが引き起こしうる摩擦にも拡大できる話かもしれない。が、ここでは広げない。

・さて。

・僕が子育ての途上で感じているイライラはおそらくこういうことだ。僕が、少なくとも人間であるということを前提として生きていることそのものに、起因している。ここで言う「人間」は、僕がそう捉えるということにおいての「人間」である。この「人間」は当然のことながら「現代性」を持っている。簡単に言えば「現代人」ということだ。その僕が「人間」だと思っている「現代人」の「現代性」に対峙しているのは、究極的には「自然」だろう。

・幼児から見れば「自然」の側から、親が知らず識らずに抱えている「現代において人間であること」、つまり「現代的な人工・人為」に対峙している。なんで食べたいものを食べるのに水道の蛇口をひねって手を洗わなくてはならないような文化的規範を維持しなくては生存できないのか。なんでパンツやズボンを身に着けないと生きていけないような気候域にそもそも棲息しているのか。なんで車なんてものが走っているのか。

・この二分法的対立が双方のイライラを誘発している。

・僕は今、自分でも意識しなかった、意識しなくても良くなっていた、前提レベルの「人間」「人為」「人工」の上に立って、「自然」と闘っている。僕の子供は今、当然のごとく生まれ持った意識する以前の「自然」を前提にして、「人間」と闘っている。

・この闘いはそれほど遠くない将来、決着がつく。悲しいかな、自然が打ち負かされる。すでに絵本を読んでいる。すでに言葉を使って親と話をしている。すでにおしっこを失敗したら悔しい。すでに親がするような「難しい」ことを真似してやってみることに喜びを見出している。すでに人間として生きることに楽しさや面白さを味わっている。すでにすでに。そうして、人間が一人増える。自然から移ってくる。

・「自然に帰る」というのは、「自然」というのが人間を取り巻く「環境」としてあるのではなく、人間というものそのものが「不自然である」のだが、その人間が変化することで「自然に帰る」ことができたとするなら、そのときそれはもはや人間ではなく「自然である」、死もその一つだ、ということなのだろうな、ルソーよ。


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