今日は土曜日。アラタが家にいる。土日は基本的に製作は進まない。進めない。
小さな子供を育てているときの独特の大変さはイメージというものに関係していると思う。この時期、子供関連でやることがたくさんあって追いつかないということもあるが、それ以上に物事がことごとくイメージしたとおりにならないということがある。二歳児は「イヤイヤ期」と言われて特にそれが顕著に出る時期の一つだ。
どんな単純なことであれ、無意識に近い行動であれ、僕たちは何かをするのに少し先の未来をイメージして、それを実現するということをやっている。
ご飯を食べる。という一見単純に見える行動もご飯を食べる前に、ご飯を食べている自分や食べ終わった自分を無意識的にイメージしている。このイメージは視覚的なものというよりは、全体的な体験としてのイメージだ。このイメージを実際にご飯を食べることで実現する。
それがどうかしたのかと思うかもしれない。それがどうかするのだ。
「手を洗おう」と子供に呼びかける。このとき僕はイメージとして子供と一緒に手を洗っているのを体験している。それが一言、「いや!」だ。僕のイメージとしての体験はかき消える。僕はもう一度イメージを作る。「手を洗って、ご飯食べよう」。「いや!」。また消える。また作る。「ご飯食べないの?」。「食べる!」。「じゃぁ手を洗おう。砂だらけだよ」。「いや!」。
イメージのスクラップアンドビルドが延々と繰り返される。膨大な量のエネルギーが浪費されていく。これが、小さな子供を育てているときに生じる精神的消耗の大きな要素だと思う。肉体的作業として見た場合、子育てというのはそこまで過酷ではない。しかし、疲れる。親でなければ、それほど疲れないのは、そのイメージのなかに子供の占める割合が少ないからだ。
僕も自分の子供でなければ、笑って見ていられる。しかし、自分の子供でなくても、自分のイメージの中にその子供が占める割合が多くなると、同じように疲労する。なんとなくだけど、僕が子供の頃はまだそういう大人が周りに多かったのではないかと思う。親でもないのに本気で怒鳴られることがしょっちゅうあった。今はそんな大人ほとんど見ない。僕自身にしたってそうだ。
こういったことはもちろん、全く同じことによって、楽しさを生む。予期せぬ姿に愛おしさも生じる。大人とのつきあいではありえないような幸せを感じる。イメージの浪費、イメージのずれが生むものだ。
言葉というのはイメージと強く関係がある。その言葉を書いたり読んだり話したり聞いたりすることはその体験をイメージとして構築し、現実的な意味と同じ原理で「体験する」ことだ。言葉の底の方にあるイメージとの結びつきを結ぶことだ。言葉が海面だとしたら、イメージの空間は海底から海面までの深さに相当する。
製作もイメージの世界で進行する。土日は、そちらに回るだけのエネルギー量がない。すっからかんだ。
昼寝のタイミングを見計らって、今日の分の日誌は書けた。
●5月1日、2日
4月初旬に詳細お知らせできそうです。
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■近々開催のまるネコ堂の催し
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●リクエスト開催:文章筋トレ
「やってみたい」というリクエストによって日程を決めていきます。
★3月16日開催
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_26.html
●スピノザ『エチカ』ゼミ(全24回)
2021年4月開始
https://marunekodosemi.blogspot.com/2021/02/35.html
●吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ(全13回)
大谷美緒主催
https://marunekodosemi.blogspot.com/2020/07/34.html
●言葉の表出、夏合宿2021
https://mio-aqui.blogspot.com/2021/03/2021.html
●文章面談
https://marunekodoblog.blogspot.com/p/blog-page_20.html
●雑誌『言語』(5、6、7号、在庫僅か)
https://gengoweb.jimdofree.com/