文章を読んでいるとその文章を書いている人の姿を感じる時がある。あるいは、文章を書いている人の心の動きを直接的に感じ取れるときがある。こういうとき、かならずしも文章そのものには書き手の姿が描写されているわけではない。それでも、そういう感じがするときがある。
淡々と子供の様子を綴った文章に親の愛情深い眼差しを感じることがあったり、年表のごとく事実の羅列を書き記したものに激しい怒りや悲しみを感じたりすることがある。
こういった読文感覚がいったいどうやって起こっているのかを説明しようとすると、かなり難しいし、普通は手っ取り早く、作者の実際の家族構成などを引き合いに出して「この文章を書いた時点で、作者の子供はなん歳ごろで」といったことを根拠にしたり、歴史的社会的な事件の凄惨さやそれに関係する作者の立ち位置など、文章の外部で説明しようとしたりする。
しかし、それはおかしい。作者がどのような立場にあろうと、読者は文章を読んでいるだけだ。どれほど文章外の情報を得ていようとも、この現象が生じるのは、その文章を読んだからであって、あくまでも文章にその原因を求めるのが筋だ。外部情報のトッピングはあとからいくらでも足せるが、あとからしか振りかけられない。
そこで、文章の内部で、その作者の姿が立ち現れる仕組みを説明する必要がある。少なくとも文芸批評家にはある。例えば吉本隆明は、これを「視点」で説明しようとする。登場人物を俯瞰で見ていたはずの視点が、次の瞬間、その人物の主観になっていたり、あるいは、内的な視野になったり、というように説明することで、この転換する視点の軌跡から、ある空間構造が生まれ、そこには作者の意識が蒸気のように立ち込めることがある。蒸気のような意識に読み手が重なるようにして、作者の意識が直接的に読み手に入り込むことで、書かれていない作者の姿や意識すらも「伝わる」ということが起こる。これはかなりうまく説明されているし、これ以上うまく説明できる気もしない。
それでも何か物足りない気がするのはなんだろうか。書くことや読むことを神聖視してしまっているのかもしれない。そんなにかんたんには説明できないはずだ、というのは、説明できてしまっては困るということかもしれない。
細かいことではあるが、一つ言えることは、僕はそんなに見ていない。記憶というものは視覚的ではない。覚えているのはビジョンではない。イメージというのは視覚にとどまらない。聴覚像、味覚像、嗅覚像、痛覚像なども一発で変換できるぐらい一般性を持った言葉になっている。だとしたら「感情の像」のような、悲しみの像や愛しさの像というものもありえるだろう。イメージというカタカナ語をそれぐらいで使ってみてもいい。そのイメージをもう一度、言語の持っている構造体に組戻してみるとどうなるだろうか。
作者の存在やその意識を感じ取れるというのは、作者の意識のイメージを持つということだ。持つというと能動的に思えるが、持たされるという方が近い。ここでいうイメージは視覚にとどまらない。意識を映像化したもののことではなく、意識を意識として機能させたままその作者から分離して「意識のイメージ」として取り出したものだ。意識のイメージというのは意識そのものと同じように駆動する。それが読者の意識に浸潤してくる。
ある言葉にならない体験を誰かに言葉で伝えようとした場合、それそのものを言語化することではなく、書かれた何かしらの言葉によって意識を構造化し、その構造のなかでイメージとしてその言葉にならない体験のイメージを湧出させる。読み手はそのイメージを自身の意識に吸い込むことで、その言葉にならない体験を、より正確には、その言葉にならないその要素を、得る。
だから、逆に言えば、きれいな夕日を見たときにある言葉にならない感覚を得たということから、「きれいな夕日を見た」と記述された体験のシーンが書かれるとする。それを読んだ人が「夕日」とは別種の「赤ん坊が生まれた」という体験のシーンでの曰く言い難い思いを、夕日の話として書かれた文章を読むことで得るということも起こりうる。この場合、夕日と赤ん坊の誕生を結びつけるものは、その人にしかないし、その人にしかなくて良い。一般的な象徴関係は結ばれる必要がない。夕日と誕生とを結びつける因果をその人の生い立ちや社会のあり方などで説明することはできないし、必要もない。この特殊な結びつきは、文章のなかの構造によって生じている。
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