特に心理学的な素養があるわけではなく、単なる言葉として見た場合の「使われ方」に対する考察です。
「自分はすごい」「自分は正しい」「自分は間違っていない」と「感じる」といったような意味合いで「自己肯定感が高い」と使われている場面を目にするのですが、僕が言葉から感じるものとは少しずれているように思えます。こういった少しのズレは、ニュアンスとでもいうようなものなので、なかなか言い当てにくいのですが、その違和感について書いてみます。
まず「自分はすごい」というような感覚自体が大切だということはそうだと思いますが、これを抽象的な名詞として名指しするのだとすれば、僕なら「自己賞賛感」といった言葉にします。というか、わざわざ作らなくても「誇り」とか。「誇りを持とう」「誇り高き」といった感じで。
また、「自分は正しい」「自分は間違っていない」と「思うようにする」、みたいな「感覚」は、少し意地悪な言い方かもしれませんが「自己正当化感」とでも言ったほうがいいかもしれません。
いずれも、僕が「自己肯定感」という言葉から受ける印象からすると、付加価値が乗っかってしまっているように感じます。クラッカーの話をしていたら、レバーパテがないとダメだよね、というような話をされたような違和感です。
僕の実感として、単なる言葉として見た場合の「肯定」は、もう少しフラットに「その通りだ」といったことで、否定である「そうではない」とに対立しています。
これで行くと「自己肯定感」という言葉は「自分がその通りだと感じる」といった程度の意味になります。特別な解釈が必要なものというよりは、ごく当たり前に「自分というものがある感じ」です。これをわざわざ「自己肯定感」という言葉で取り出して概念化した結果、そういった抽象化と概念化の「手間」に対する「ご褒美」として「付加価値」をもってしまったのかもしれません。
それで。
「自分はすごい」「自分は正しい」「自分は間違っていない」というのを付加価値的に捉えられてしまった結果、よく見かける「自己肯定感を高めよう」というフレーズが「自分に新しい付加価値をつけよう」というように扱われて、「自己肯定感を高めるセミナー」といったような、一種の「習い事」化まで行ってしまう。
しかし、自己肯定感が言葉上では「自分がそのとおりだと感じる」ということだとすれば、よりくだけた言い方をすれば「自分がいると感じる」といった程度で、むしろ、あらゆる価値観の前提となる「自分」の存在の「肯定」を「実感する」ということに思えます。前記の「付加価値」を含んだすべての価値判断の「前提となる自分」というもののレベルの話です。
ときに「自分はすごい」と思ったり、「自分は駄目だ」と思ったり、「自分はありふれている」と思ったり、「自分は正しい」と思ったり、「間違えてしまった」と思ったりといった諸々の「思ったり感じたりする」ことの「土台となる自分(自己)」が「存在する(肯定)」「よね(感)」ということが自己肯定感という言葉の意味なのではないかと。どうなんでしょう。
前提の話をしているのに、いつの間にかその前提に乗っかっちゃったものの話になってしまっている、という感じで、僕はこれが結構気になるのです。乗っかっちゃものの話がどうころんでも、前提はそのもとで話題に上ることなく省みられることなく静かにそこにあり続けているんだよね、という僕の違和感の話でした。