June 6, 2019

【574】ずり這い。

久しぶりに新(あらた)日記。今日でちょうど9ヶ月目。

這い這いはまだで、移動は高速でずり這いする。

乳児は発達の中で、いろいろなことが段階的にできるようになっていくが、そのなかでもこのずり這いが、僕は一番かっこいいと思う。両手と両足を器用に使って、まるでトカゲのように進む。特に脚の動きがいい。片足ずつ交互に曲げて、つま先がお尻のすぐ下にまで来るように持ってきて、親指と人差し指の根元あたりで地面を蹴りながら、それに合わせて、腕を交互に前に出して進む。

このときに体がくねくねと曲がるのが良い。進んでいく後ろから声を掛けると動きを止めて体を捻って首をこちらに向けるのも良い。そこから、片足を突っ張るように伸ばして、お腹を中心にぐるりとコンパスの針が回るように水平に滑らせて、体の向きを変えるのも良い。

でも、最近、膝を立てて、腕も突っ張って、四つん這いで腕を前に一歩二歩と出すようになった。這い這いだ。今はまだ、脚を垂直にして、お尻を上げて保っておくことができないが、そのうちそれができるようになっていけば、這い這いが完成する。そうなれば、もう、ずり這いをすることはなくなってしまう。

ずり這いよりも這い這いのほうが、できるようになってしまえば、断然楽だからだ。試してみればすぐにわかるが、二足歩行に慣れてしまった大人には、ずり這いは相当にきつい。きついけれど、広い部屋なんかでやるとなかなか迫力があって、宴会芸には良いかもしれない。

ともかく、もうすぐ見れなくなる。

まさに今が、最も完成された、美しく力強いずり這いである。

June 4, 2019

【573】『言語6』できあがりました。


今日『言語6』ができあがりました。今号ははじめての寄稿が掲載されています。山根澪さんの「妊娠の記録」です。僕からするとパートナーなのですが、一応、そういうことを抜きにして共同編集者の小林健司さんと検討し、編集者として掲載を決めています。面白いです。
山根澪さんの寄稿の感想がブログに掲載されているので、そちらも御覧ください。
寄稿という体験

さて、今号は、1号以来続いていた小林さんの「人と言葉の関係論」連載が終わり、前号からつづいていた僕の「これってさ」も後編を無事に書き終え、一段落です。次号からまた新しい展開に入っていきます。

発行間隔が伸びていて、いつも目次横の次号発行予定が詐欺状態になっていますが、本当はもっと出したいと思っています。次号から巻き返すぞ!

ご注文は言語ウェブより。
https://gengoweb.jimdo.com/

June 3, 2019

【572】今日は久しぶりに休み

と宣言したとたんに、休みだからやってしまっておきたいことがいろいろと出てくる。そして、さらに、休みだけれど、休む前に終わらせておきたいちょっとした仕事も出てくる。結局、休みではない日以上にタスクは増えていく。

とは言っても、気分が休みであることは変わりないので、休み気分でタスクをこなしていって、これはこれで気分良く捗って、そこそこハッピー。

この手のオリジナル・ライフハックを僕は日夜せっせと作り出しては、あれこれ繰り出してライフしている。そんな人一倍、実用的かつ機能的な人間で、僕は快さと同時に、つまらない生き方だという残念さも少し味わったりしている。

ホントは不器用さがほしいのだ。骨太の不器用さを。贅沢な悩みの贅沢さを限界まで味わうというのも、わりとハイレベルなライフハックである。

それはさておき、今日はできれば本を読みたい。ゼミやなんかのために読むのではなくて、好きな作家(ということにしておく)保坂和志の『ハレルヤ』をゆっくり読みたい。ウイスキーとか、そんなようなお酒を飲んでもいいと思っている。

June 1, 2019

【571】読書は旅である。習慣で本を読んではい(け)ない。

僕は本をよく読むけれど、本を読む習慣があるわけではない。僕は習慣で本を読んでいない。

ここでいう習慣とは例えば歯磨きのようなもののことだ。習慣というのはその行為をする前から、したあとの結果を予め知っている行為で、別の言い方をすると、すでに確固として存在する「日常」を、良くも悪くも、維持している。

歯磨きをしないと虫歯になって、日常が破損してしまうから、する。歯磨きをしないと口の中がなにか気持ち悪い感じがするから、その気持ち悪さを除去して「通常の状態」に復帰するために、する。習慣とはこういうもので、そのために、「毎回同じである」「固定されたこと」が反復的になされる。

僕にとって本を読むことはそのようなことではない。

本を読む前に本を読んだあとがどうなってしまうかは、未定である。本を読んだあとに、僕と僕の世界が変容してしまう。それまでの自分と世界とが一変してしまうようなことだ。規模の大小はあるにしても、本を読むということはそのような内外の同時並行的な変容を含んでいる。初見と再読とにかかわらず、そうだ。

「読み進めることができない」という場合の理由のいくつかは、この、自分と自分が捉える世界の動的な変容に耐えきれないからだ。読んでしまったが最後、もととは変わってしまうということの恐怖は、好奇心や面白さと同じものだから、この可読不可能性は、本を読むことに予め含まれている。

これは人間が生きていくというその全体性と相似している。僕は、習慣として、あるいは習慣の集積として「生きている」わけではない。

好きで始めた当初は非習慣的だったことが、いつのまにか習慣的になってしまっていることがある。これは一見すると長続きする状態への移行のように思えるのだけれど、実態としては、自分と世界の動的な変容が生じなくなり、安定と引き換えに、恐怖も好奇心も面白さも失われている。機械のように、あるいは、機械のスイッチをいれるように読書をしているということだ。スイッチが入れば自動的にある状態が心身に訪れる。それは本を読むことが中心にあるのではなく、ある心身の状態を手に入れるための常備薬として本を読むという行為が機能していることになる。行為によって報酬が得られることを知って、報酬を求めて行為している。

僕にとって本を読むことにそのような精神安定剤的要素はない。興奮剤的要素もない。予め何らかの効果を想定して読んでいない。本を読むのは自己と世界の変容を伴う未知への旅である。

May 23, 2019

【570】年寄りだと思われている。

何人かの人には直接言われたことがあるので、疑う理由もないが、僕のブログを読んでから、その後で直接僕に会った人はだいたい「もっと年寄りだと思っていた」という感想を持つ。

書いている方は特段年寄りっぽく書いているわけではないけれど、そのように読めるのだからそうなのだろう。こういうことに対して特に悲しいとかショックだとか納得がいかないとか、そういったことは思ってはいないけれど、少し分析してみると面白いことがわかるかもしれない。

一つあるのは、僕の文章の特徴として、まず逆方向に文脈を振ってフェイントを入れてから回り込んでくるという文脈のライン取りの癖がある。これを、ある種の老獪さと言えば聞こえはいいけど、辛気臭さというか、説教臭さというか、そういうのにも近いかもしれない。

具体的に言えば、「書いている方は特段年寄りっぽく」の「特段」と「っぽく」という小さなアクションで、行きたい方向とは逆側というか外側に、文章の重心を振る。次に、この外側に重心がかかっている状態を、「わけではないけれど」の「わけでは」と「けれど」でグリップさせて、内側に方向を変えていく。こうやって、一旦曲がろうとする方向と逆側にふってから、本当に曲がりたい方向へ曲がるという手間をかけている。これは、文章の荷重移動で、車の操舵と同じように、一見無駄な動作のように見えて、実はスムーズに曲るためには効果的なやり方だ。

こうやって書くと、複雑な、あるいは高度なテクニックを駆使しているようにみえるかもしれないけれど、そうではなく、これは会話などでは頻繁に見られる「謙遜」や「謙譲」と同じありふれたものなのだ。謙遜や謙譲によって、話の筋がつかみやすくなるように。

謙遜や謙譲が適度に効いている文章だから、きっとそれはある程度の分別を持った人だろうという予測を生み出す。それに加えて、抑揚の抑えられた文体が(これはブログを書くときの僕の心的な状況を反映しているのかもしれない)合わさって、年寄りくささが出ているのだと思う。

テクニック的なものは大体そうなのだけど、やりすぎると鬱陶しい。やりすぎなくても、先を読まなくてもある程度気分的な予測がついてしまう文章になってしまうわけで、つまらない文章になりがちだ。「わかりやすい文章」を目的にして突き詰めることの弊害である。

あとはまぁ、こんな分析を自分で自分の文章に対してやるような暇な有り様が、年寄り臭さの最大の要素かもしれない。

たしかにいつものんびりはしている。

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