June 1, 2019

【571】読書は旅である。習慣で本を読んではい(け)ない。

僕は本をよく読むけれど、本を読む習慣があるわけではない。僕は習慣で本を読んでいない。

ここでいう習慣とは例えば歯磨きのようなもののことだ。習慣というのはその行為をする前から、したあとの結果を予め知っている行為で、別の言い方をすると、すでに確固として存在する「日常」を、良くも悪くも、維持している。

歯磨きをしないと虫歯になって、日常が破損してしまうから、する。歯磨きをしないと口の中がなにか気持ち悪い感じがするから、その気持ち悪さを除去して「通常の状態」に復帰するために、する。習慣とはこういうもので、そのために、「毎回同じである」「固定されたこと」が反復的になされる。

僕にとって本を読むことはそのようなことではない。

本を読む前に本を読んだあとがどうなってしまうかは、未定である。本を読んだあとに、僕と僕の世界が変容してしまう。それまでの自分と世界とが一変してしまうようなことだ。規模の大小はあるにしても、本を読むということはそのような内外の同時並行的な変容を含んでいる。初見と再読とにかかわらず、そうだ。

「読み進めることができない」という場合の理由のいくつかは、この、自分と自分が捉える世界の動的な変容に耐えきれないからだ。読んでしまったが最後、もととは変わってしまうということの恐怖は、好奇心や面白さと同じものだから、この可読不可能性は、本を読むことに予め含まれている。

これは人間が生きていくというその全体性と相似している。僕は、習慣として、あるいは習慣の集積として「生きている」わけではない。

好きで始めた当初は非習慣的だったことが、いつのまにか習慣的になってしまっていることがある。これは一見すると長続きする状態への移行のように思えるのだけれど、実態としては、自分と世界の動的な変容が生じなくなり、安定と引き換えに、恐怖も好奇心も面白さも失われている。機械のように、あるいは、機械のスイッチをいれるように読書をしているということだ。スイッチが入れば自動的にある状態が心身に訪れる。それは本を読むことが中心にあるのではなく、ある心身の状態を手に入れるための常備薬として本を読むという行為が機能していることになる。行為によって報酬が得られることを知って、報酬を求めて行為している。

僕にとって本を読むことにそのような精神安定剤的要素はない。興奮剤的要素もない。予め何らかの効果を想定して読んでいない。本を読むのは自己と世界の変容を伴う未知への旅である。


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