April 30, 2018

【催し】まるネコ堂ゼミ・ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』

まるネコ堂ゼミ・ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』上下巻


(アマゾンで書名検索すると安い古本もあるようです)

〈案内文〉

イベントの案内文なのだから、なにかちょっとこう気の利いたことや意味深なことをほのめかす感じでさらっと書けば、興味につられて人が来てくれるんじゃないかと毎回思うのだけど、結局、妙に力の入った精一杯の案内文を書いてしまって、もうむしろ逆に門を閉ざしてしまうということがあります。ありませんか。今回もまた懲りずに自分の精一杯を無様に投げ出してしまうような長文になってしまった。

気負わずに来ていただけたらいいです。みんなで本を読むのって楽しいです。意外なことが起こったりして面白いです。だから読みましょうというだけのことを素直に書けばいいのに一体どうしてこうなるのかと毎回不思議なので、改めて言いますが、みんなで本を読むのって楽しいし、意外なことも起こるし、面白いので、ぜひ来てください。言ってみればほんとにそれだけのことをやっています。

となると僕の無様な精一杯の行き先として残るのは、今回読むデリダの本への僕なりの敬意と挑発だったのだとわかるわけですが、以下、それを付記しておきます。

デリダが本書でやろうとしていることは、西洋哲学まるごと、あるいは西洋まるごとを乗り越えることなのだけど、デリダによれば、この西洋=哲学はロゴス中心主義的・パロール中心主義的であり、エクリチュール(文字言語、書き言葉)を徹底的に貶めてきた。だからパロール(音声言語、話し言葉)にたいするエクリチュールの劣位を、むしろパロールのなかに、つねにすでにエクリチュールがあるということを示し直すことで、それを成す。

ということで、この本は「説明」できた気に一瞬なるのだけど、もちろんこんなことで説明できる本ではない。これでこの本を読んだことにできるなら、せいぜい「訳者あとがき」を読めば十分で、本書を読むこと(レクチュール)は必要ない。

デリダは、パロール中心主義・ロゴス中心主義を、恐ろしくねちっこく様々な方向で突きまくる。驚異的な「ルソーおたく」ぶりが存分に発揮される第二部では、ルソーを(ルソー以上に?)通ることで、中心主義という根源主義の「不成立」をあぶり出していく。読むことによって書くことによって、ルソーを通り過ぎ、自身の基盤である西洋=哲学までもを通り過ぎようとする。ハイデガーが採掘用のドリルでガリガリと掘り抜こうとした西洋という岩盤が、岩盤の硬さゆえに、民族中心主義的脱落者を生んでしまったのとは対称的な柔らかさで。ハイデガーを横目に見るデリダは、哲学者であるというよりも純朴な「哲学おたく」の風情がある。

どうしても説明にならない説明をしようとしてしまうのは、僕がまだこの本をちゃんと読んでいないからなのだけど、方向を変えて、今はとにかく僕がどうしてこの本が面白かったのかを書いてみる。

たとえば、僕自身がパロール中心主義的であることをあばかれたから。「自分が=話すのを=聞く」ことの絶対性を疑っていなかった。デリダは僕に向けて批判を開始している。これにまずドキドキする。

デリダは、書くことの限界を示しつつ、そのために、読むことの限界を実施する。読むことと書くことの限界付近の挙動をつぶさに露わに「書き記す」というのは驚くべきことである。デリダは自らの立つ西洋を限界で読み、書いた。その痕跡がまざまざと残されている。

デリダは自分が乗る土台そのものへの執拗な揺さぶりを、土台から降りるのではなく、また土台から浮遊するのでもなく、その土台に立ちながら遂行していく。西洋というもの、あるいは西洋語・フランス語というものがその土台を土台として構成している以上、必然的に言語への無理強いが生じる。その軋みと悲鳴に僕は魅了される。

さて。

日本語の僕たちが「先を読む」とき「書く主体(誰が書くのか)」は要請されない。「書くという所作」そのものの不在すら問として起動しない。「先」というのは、ただ「今の向こう=未だ」という開いた方向感だけを示している。つまり「対象」も読まれた「後に」出来することになる。「現前している今の状況から未来を想定する」ことを「先を読む」と言い得るのはなぜか。誰にも、書かれてもいない、書くという所作そのものを前提しないものを、僕たちは読んでいるかのように読める。もちろん、あくまでも「読む」ことの方から言い得ることに過ぎないけれど。

英語で think ahead することを read ahead と書き換えられたとして(これって自然なんだろうか。英語に無理強い?)、read としてどのようにイメージできるのだろうか。そのとき、write はどのように問題になっているのか、あるいはならないのか。フランス語においてはどうなのか。

また、日本語で「風景を歌に詠む」とき、「よむ」という営みが、(狭義の?)読むだけでなく、(狭義の?)書くということに重なりうることを直接に示唆しているようにも読める。

日本語の「読む」という語が保持する広さと柔軟さのなかで、僕たちは、比喩として簡単に片付けられない、ある実体を確かに得ている。読むことが、書くことを前提せず、書くことに先行するところまで、何気なくごく自然に、通り過ぎてしまっている。一体、「読む」では、何が生じているのか。

デリダが(レクチュールに対して)エクリチュールに重点を置いて書かざるを得なかったのは、フランス語に、ひいては西洋に、前提があるのかもしれない。書く、書き込む、記す、刻む、分節する、と鎧を脱ぎ捨てていくようにあらわになる「エクリチュール」なる語が振る舞うそこで、日本語は、「書く」という語であるよりもむしろ、読み、読み解く、読み取るという語で、つねにすでに営まれているのではないか。

ゼミでこれから読み始める前だからか、問ばかりが先行してしまう。答を得るために読むわけでもないだろうに。

唐突だけど、本書を一読して、デリダが発し続け、僕が受け取った言葉は〈ちゃんと読もう〉である。現時点でという留保がつくけれど、「グラマトロジーについて」という本でデリダが書かんとしたのは、日本語で言えば〈ちゃんと読もう〉、つまり「グラマトロジー」とは「読み学」がいいんじゃないのかな。日本語だと。

もちろんこんな出鱈目をデリダは書いていないかもしれない。たぶん書いていない。でも、僕たちには読むことができる、としたら。

ともあれ、デリダは書いた。僕たちは読む。
関心を持たれた方、ゼミで出会いましょう。

大谷 隆


第1回 2018年6月3日(日)
 上巻 第一部第一章 書物の終焉とエクリチュールの開始

第2回 7月1日(日)
 上巻 第一部第二章 言語学と書差学

第3回 8月5日(日)
 上巻 第一部第三章 実証科学としての文字学

第4回 9月30日(日) 
 上巻 第二部 「ルソーの時代」への序論、第一章 文字の暴力:レヴィ=ストロースからルソーまで 

第5回 11月4日(日)
 下巻 第二部第二章 〈この危険な代補……〉

第6回 12月2日(日)
 下巻 第二部第三章 『言語起源論』の生成と構造 Ⅰ『試論』の位置

第7回 2019年1月6日(日)
 下巻 第二部第三章 『言語起源論』の生成と構造 Ⅱ 模倣、Ⅲ 分節化

第8回 2月3日(日)
 下巻 第二部第四章 代補から本源へ:文字言語の理論

各回13時30分から17時ごろ(延長する場合があります)。
時間のある方は終了後夕食を一緒に食べましょう(投げ銭)。

参加費:1回 2,000円 
    レジュメ割引 1,000円(レジュメ提出回)

場 所:まるネコ堂(京都府宇治市) アクセス

定 員:5人程度

申 込: 大谷までメッセージか、marunekodo@gmail.comにメールで。

・本を読んできてください。
・各回ごとにレジュメ(形式自由)を提出できます。
・過去のゼミのレジュメはまるネコ堂ゼミサイトで公開しています。
・レジュメ割引で参加費半額(1,000円)です。ぜひレジュメを書いてみてください。
・レジュメは各回の終了後、まるネコ堂ゼミのサイトに掲載します。

注意:猫がいます。ゼミ中は会場には入れませんが、普段は出入りしています。アレルギーの方はご相談ください。

まるネコ堂ゼミサイト

April 27, 2018

【405】バブアーのコートのリプルーフ

天気が良いのでバブアーのコートのリプルーフ。リプルーフというのは油の入れ直し。油というかワックスというか。

コートはこれ一着しか持ってません。重たくて、ダウンみたいに快適とは言えないのですが、風や雨をきっちり防いでくれるので命を守ってくれる感じが頼もしいです。

バブアーはイギリスのメーカーで、もともとは乗馬や狩猟なんかのときに着る防風防水コートなんですが、これを着て山へは行きません。こんなに森に馴染む色の服を着ていると本職の猟師さんに誤射される危険があります。山へ行くときはオレンジとか目立つ色の服を着て命を守りましょう。

リプルーフの手順の説明をしようかと思ったのだけど、検索すればたくさん出て来るし、そもそもそんなに難しくもないので、かっこよさげな動画を紹介しておきます。動画を見て気分を高めると楽しくできます。


動画では暖炉に火が入っている寒い時期にやってますが、ワックスを湯煎する都合上、暖かい時期のほうがやりやすいです。といっても真夏に、汚れを気にして屋外でやるとなると、ちょっと気分的にしんどくて結局やらずに冬を迎えてしまうので、僕はこの時期から5月ぐらいにやっちゃいます。


ワックスを塗り込む前に水拭きして乾かしておきます。今年は澪が水拭きしてくれたので、楽ができました。ワックスでベタベタになるので庭でやってます。


ワックスを湯煎して溶かします。ちゃんと溶けると水みたいに透明になります。


使用したのはこれ。一缶で2回分らしいのですが、僕の塗り方だとちょうど3回分でした。


ウエスでベタベタ塗っていきます。僕はムラとかあんまり気にしないで適当にやってます。


ポケットの裏も忘れずに。


全部塗り終わればおしまい。このあとほんとはドライヤーでワックスをなじませるらしいのですが、面倒なのでやってません。しばらくほったらかして、ベタベタが気になればドライヤーを使うかもしれません。

コート自体は大阪の桃谷にあるJAMという古着屋さんで買いました。楽天市場にも出店されてます。
秋ぐらいになったらバブアーの出品も増えるんじゃないかな。

April 26, 2018

【404】本を読むことについての覚書

実家の片付けをしていたら疲れてきたので、ブログを書く。本について。

僕の住む家、つまりまるネコ堂は、比較的本棚が多いと思う。しかしそれでもこれまでに僕が読んできた本のうちのほんの一部で、極めて厳しい選別を通過したものだけがここにある。したがって、まるネコ堂にある本は面白い本である。一部、僕が読んでいないものもある本もあるけれど。

電子書籍については僕は肯定的である。僕自身は基本的に本は紙に印刷されたものを読むけれど、これはこれまでの僕の習慣が大きい。最近は良さそうな端末も出ている。キンドルペーパーホワイトなど、実物を見たことはないけれど。今後本を読み始める人が、電子書籍から始めるということはあると思うし、あって良い。紙の本と電子書籍は異なる特徴を持っているというだけだ。電子書籍で読むということがどんな出来事をもたらすかは、はっきりと言うことはできないけれど、あくまでも本というものの領域の内部の出来事として包含される。排除すべきものではない。

文字による表現を現出し、残すというのが出版文化である。その一翼を担うのが文庫だ。文庫本というのは文字通り「文の庫」、アーカイブであり、文庫になるということはアーカイブされるべきだという判断がなされたものだ。電子書籍はこの出版文化の一つの中心に対してある刺激を与えるだろう。電子版の岩波文庫を、今後出版されるタイトルも含めて、一生好きなだけ読める権利が妥当な価格で提供されたら、かなり真剣に検討する。子供にプレゼントするかもしれない。

本を書くことや読むことは、感じるということや思うということや考えるということについて多大な影響を及ぼす。鮮烈に充溢させ、その人にとってその人が再び現われる契機そのものとなる。これを人間が手放すとは思えない。少なくとも出版という、ある連続した所作が滅びるということがない程度の数の人間が、今後も本を手放さない。

面白い本は軽くない。面白い本を読みたければ、重たい本を持ち続けられる筋力をつければよい。読むための筋肉と呼ぶべきものがあるし、これは鍛えることができる。読むということは、読まない人が「考えて」いるほど、虚構ではない。均質でもない。静寂でもなく、既存でもない。

本を読む人が、読み慣れていない人のためにやるべきことがあるとすれば、紹介してあげたり、要約してあげるのではなく、読む人の読むことの精一杯をさらけ出すことだ。書く人の精一杯がさらけ出たものを読むのだから。

April 24, 2018

【403】『言語5』できました。

『言語5』出来ました。2段組で68ページ。それなりに分厚くなってきました。

文字に残る形で何かを公表するというのはなかなか大変で、毎号ヒヤヒヤです。「最先端の自分を書く」ことが引き起こすものは絶大で、初号を出してからまだ二年しかたってなかったのかと自分でもびっくりしています。長生きしてる気分です。

April 22, 2018

【402】いまさら読む東浩紀『一般意志2.0』

「エッセイ」である。著者自身が冒頭、いきなりそう宣言している。
 あらゆる夢と同じように、筆者の夢もまた、断片的で矛盾だらけで、欠陥が多く混乱に満ちている。だから筆者はこの原稿を、論文としてではなく、エッセイとして記すことを選んだ。
 その選択はもしかしたら、この二〇年のあいだ人文科学で、というよりも思想や批評の世界で主流だった、注釈と参考文献ばかりが多く過度に防衛的な論文スタイルに慣れた読者には、とてもいいかげんで頼りないものに映るかもしれない。[第一章]
論文ではなくエッセイにした。という著者の認識がじわじわとあとになって響いてくるのだけど、まず順をおっていこう。

本書で展開されるのはどういった「夢」なのか。全部で十五章からなるのだけれど、その後半、第10章で丁寧に「本書の中核的な主張はほぼ語り終えた。(略)ここまでの議論をあらためて確認し整理してみることにしよう」と、わかり易く丁寧に、著者自身がまとめてくれている。お陰で引用がし易い。
まずは本書は、ルソーについて新しい解釈を提出した。近代民主主義の基礎概念、ルソーの「一般意志」は、一般に考えられているのとは異なり、討議を介した意識的な合意ではなく、むしろ情念溢れる集合体的な無意識を意味している。これが本書の第一の柱だ。
このルソーの新しい解釈は面白く読めた。ルソーを読んで確かめたくなる。
筆者の考えでは、ルソーの理想は、意識ではなく無意識に、「人の秩序」ではなく「モノの秩序」に導かれる社会にあった。実際にそのように解釈してはじめて、彼が、『社会契約論』の著者であるのと同時に、ロマン主義を準備した情熱的な文学者であり、恋愛小説や告白小説の作者でもあったという事実が整合的に理解できるのである。(略)ルソーはそこで、意志として意識されない意志、契約として意識されない契約についてこそ語っていたのだ。
一見すると矛盾するルソーの二面性についてはデリダも『グラマトロジーについて』でねちっこく読んでいるし、書いている。このあたりも興味深い。
 このルソー読解からは、必然的に、近代の民主主義社会は、熟議民主主義の理論家たちが主張するのとは異なり、じつは「大衆の無意識に従うこと」を目的として生まれたという結論が導かれる。
 大衆の無意識に従うこと。それは魅力的だがまたじつに危険な発想でもある。実際にルソーの主張は、しばしば全体主義の正当化に利用されてきた。

例えばナチス。実は、フランス革命もルソーが影響している。なるほどなるほど。
けれども、二一世紀のわたしたちはその罠を回避することができる。というのも、わたしたちは無意識を「可視化」できる時代に生きているからだ。(略)
さまざまなソーシャルメディアの動きを見れば明らかなように、現代社会は「総記録社会」へと向かいつつある。それは監視社会とは異なる。(略)いまや信じられないほどの多くの人々が、自発的に、しかもじつに克明に、自らの行動や思考の履歴をネットワークのうえに残し始めている。筆者はその状況を「無意識の可視化」と呼ぶ。
まぁ、そう言われるとそれはそうなんだけど。このあたりから、だんだんと興味が薄れていく。
そして筆者は、これからの政府は、その可視化された無意識をできるだけ統治に活かすべきだと考える。(略)それらのデータは個人の単位では不完全で断片的な履歴にすぎなくても、何万、何十万と集まればまったく異なった性格をもち始める。
ちなみにプライバシーの問題は配慮した上でと著者は断っている。また「ソーシャルメディアやスマートフォンを使いこなしているのは一部の人々」にすぎないが、それを言ったら選挙で問われる「民意」も一部じゃないかと。確かに。

たぶんこの辺が分かれ道だったのだと思う。ここはもう少し踏みとどまって、思想的哲学的な領域で戦っても良かったのではないか。あるいはこのへんで終わっておけばよかったのかもしれない。

で、結局「夢」はどうなるのかというと、従来的な熟議とデータベース(可視化された大衆の無意識)が補い合う新しい制度を提案する。
言ってみればーーより進化したサービスを前提としているのでいろいろ細部は違うのだがーー、政府内のすべての会議を「ニコニコ生放送」で公開しろ、と呼びかけているようなものである。
「うぉー!そんな斬新な手があったかぁ!」となれば本書は成功したということになるし、その先に「じゃぁ、それ本気でやっちゃうぜ」みたいな人が現れて、現実化すれば、本書は大成功となる。のだけど、少なくとも僕は、著者の準備してくれたフックにひっかからず、乖離した。

本書は2009年から2011年にかけて連載されたものを2011年に書籍にまとめたもので、それを2018年にいまさらながら読んでいる。そういうタイムラグがある。あるのだけど、それ以上に、「これって本気なのかな」と思ってしまって、僕の関心がしぼんでいった。後半部分、自分は専門家じゃないのでやらないけど、誰かやったらいいのに、というふうに投げ出されているからかもしれない。

もう一度もとに戻る。本書はエッセイとして書かれている。「断片的で矛盾だらけで、欠陥が多く混乱に満ちている」からという理由で、論文ではなくエッセイを選んでいる。しかし、エッセイにはエッセイの勝負どころがある。断片的で矛盾だらけで欠陥が多く混乱に満ちた夢を描くことについては問われなくても、別の何かが求められる。

端的に言えばコクと香りがないのだ。一歩間違えばアクや嫌味になるようなギリギリのコクと香りがエッセイの醍醐味ではないだろうか。このコクと香りによって、読者は、矛盾や欠陥や混乱を美味しく飲み下すことができる。

著者自身が「論」の半ばで、自説を懇切丁寧に短くまとめてくれていること自体にそれが明瞭に現れている。長時間かけて作ったスープを活性炭フィルターで濾すようなことができてしまうのは、もともと著者にスープというものへの意識がないということだと思う。それは著者の「聡明さ」に由来すると思われるが、だとしたらエッセイという選択は正しかったのだろうか。著者の本域はここなのだろうか。

繰り返しになるけれど、著者のルソーの読解は面白く読めた(どこまで同意できるかはともかく)。僕にはむしろソッチのほうが新しい。こういう感じでもう少し進んでくれたらとどうしても思ってしまう。それだとこんなに売れなかった可能性は高い(どころかそもそも企画が通らなかったかもしれない)。目新しい情報技術・サービスの紹介を交えることで読者を増やせるかもという、(著者ではなく)出版社の下心があったのかもしれない。結果的に本書の「時間への耐性」を弱めてしまったように思われる。

「この二〇年のあいだ人文科学で、というよりも思想や批評の世界で主流だった、注釈と参考文献ばかりが多く過度に防衛的」な論文が気に食わないのであれば「適度に」防衛的な論文で書くという手もあったと思う。というかこの本、エッセイとしては例外的なレベルで注釈と参考文献が多いと思うのだけど・・・。

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独断のいまさら読むとしたらおすすめ度:★★
「★2.0です。という冗談はさておきホントは2.5とか2.7とかそのあたりですが、3つまではいかないので。読んで損はないです」

★★★★読みなさい
★★★ 読みましょう
★★  読みたかったら
★   読まなくても

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