October 3, 2014

【017】シーン先行型の暮らし

刃物を研いで使うというシーン。
岡田斗司夫が、「エヴァンゲリオンはシーン先行型で作られている。これでもかこれでもかとかっこいいシーンを繰り出してくる。ストーリーは二の次」というようなことを言っていて、あぁそうかと思った。

僕らの暮らしはシーン先行型だ。

例えば、
七輪でサンマを焼いて食べるシーン。
火鉢であったまりながら本を読むシーン。
万年筆にインクを吸い上げるシーン。
シーンは何かが有ることで作られるだけではなく、
電子レンジがないことで生じるシーン。
なんていうのもある。

シーンと言っても、画的なものだけではなくてもう少し概念的なものもある。
オーダーして作った足にピッタリの靴を履いてどんどん歩くシーン。
新品よりも使っていくことで良くなっていく道具のシーン。
講読ゼミで本を読みながら仲間と真剣な話をするシーン。
それぞれのシーンは、そのシーンにおいて最適化されていくから、例えば庭で七輪に火をつけて秋刀魚を焼く工程はどんどん洗練されていく。もともと魅力的だと思うから作り上げたシーンはそれなりの強度と魅力を持って僕の暮らしに存在し積み重なっていく。しかし、その七輪シーンとペンキを塗り直し作り上げた部屋の中の喫茶店シーンの接続はかなり強引になる。

また、やってみたいと思っても実現できないシーンもあった。なんで、できないんだろうと思ってたけど、そりゃ無理だ。すでにでき上がっているシーンに必要な設定や小道具と新たにつくろうとしているシーンに必要なものが大きく食い違っているのだから。

そんなわけで、ずっと僕が暮らしに持っていた違和感の正体がわかった。

ストーリーは二の次だったのだ。

例えば、エコロジー、ロハス、田舎暮らし、節約、のんびり、などなど。
そういったストーリーで僕らの暮らしを説明しようとすると、おかしなことになってくる。

特に、つい最近まで僕が信じ込んでいたストーリーがミニマリズム。
とにかく家の中にある物の数が少ないほど良いと思い込んでいたし、そう言ってきたし、そう行動してきた。

そのつもりだった。
でも、やっぱりおかしい。

普通の人の家にない七輪みたいなものがなんであるの?
ガスコンロを使わないならミニマルといえるかもしれないけど、ガスコンロあるし。

これはミニマリズムでは説明できない。
ある程度まではうまくいくのだけど、最後まで行けそうな気がしない。

ストーリー先行型であれば、次にどういったシーンが来るかは、ストーリーを読み進めることで作られる。でもシーン先行型は、とにかくかっこいいシーンを思いつかないと次のシーンは出てこないし、逆に、突然思いついてしまったシーンを強引にでもやってしまう。

外からは、なにやら深い意味がありそうなライフスタイル(ストーリー)に見えていたのかもしれないけれど、実はとっても軽薄で表面的。そういうことがわかって、自分で笑えた。

そんなわけで、つい2日ほど前に思いついた新たなシーン。
ハンモックで本を読んだりコーヒーを飲んだりしながら、うとうとしたい。
これ、近いうちにやってしまう可能性が高い。

きっと、スモールハウスも強烈な魅力と長い尺を持つ大きなシーンだから、惹かれるんだろうな。

とにかく、僕らの暮らしのシンプルなんだかカオスなんだかわからない状況は、シーン先行型というメタストーリーである程度説明がつく。今の住環境でやれる新たなシーンがなくなった時、僕は別の舞台へ移動するのだろう。


追記:このエントリーを読んだ山根澪に「これじゃぁ、私がやったことが暮らしの中に入っていない」というクレームを受けたので、3箇所の「僕の暮らし」を「僕らの暮らし」と修正しました。


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