October 12, 2014

【021】無縁の場は現代でも存在しうる

パイプは縁のイメージ。
けんちゃんのこの論考、面白い。
円坐(エンカウンターグループ)と無縁の原理

なぜなら、
アジールは存在できないーーそれが現代人の「常識」である。その常識はメディアや教育や家庭をとおして、子供の頃から私たちの心に深くすり込まれている。(中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』p69)
アジールは無縁と読み替えられる。ここで中沢新一はカギカッコの「常識」と書いている。中沢自身は常識だと考えていないが、世間一般の「常識」という意味だと思う。

この「常識」に対して、
 「おじちゃん(網野善彦)の考えでいくと、縁を断ち切った無縁を原理にすえても社会はつくれる、ということだよね」
 「ああそうだ。無縁になってしまった人間たちを集めて、権力によらない自由な関係だけでつくられた社会空間というものは、実際に存在することができるはずなのさ。(略)」(同p97)
と無縁(アジール)が現代にも存在しうると網野善彦は言っている。
円坐を空間と時間を区切った一つの社会だとすれば、円坐は網野善彦の言葉を実現している。
「・・・そういう空間が長い時間にわたって永続できるかどうかってことが、難しい問題になるわけさ。君はそういう実例を知らないかい。社会的な縁を否定してつくられている集団なのに、長いこと持続もできるというような人間関係って、(略)」(同p98)
と無縁の実例を切望した網野善彦が円坐を見たらどう思うのだろう。

無縁という語が一般に否定的文脈で使われていたというのは、中世のころからすでにあったし、それは網野善彦も認めている(網野善彦『増補 無縁・公界・楽』p367など)わけで、そこをあえて肯定的文脈で使っていた証拠を集めているというのが『無縁・公界・楽』のすごいところ。

現代において、「今やお金で買えないものなどないのか、いやあるのか」といった議論が起こるとか、身寄りのない人が増えてきたというNHKの『無縁社会』とか、そういった否定的文脈だけでなく、けんちゃんのように自らの営みの中で無縁を肯定的文脈で捉えることは、網野善彦が浮かび上がらせたいきいきとした無縁が現代にも存在しうる証拠だと思う。




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