できたばかりの若い空き地もまた良い。 |
深遠なる構想(ストーリー)を持って生活しているのではなくて、軽薄で表面的な暮らしと書いたけど、僕はこの軽薄さを気に入っている。
というのも以前ストーリーに依存してうまくいかなかったからだ。例えば、
あるとき美緒(澪)が、糠でふりかけができることをきいてきた。炒って塩を混ぜると確かにふりかけだった。このころは節約とかもったいないとかそういったストーリーに依存していた。
その展開から、出がらしのお茶がらでも作った。美味しいかと言われると微妙だが、ふりかけにはなった。ストーリーへの依存は強い圧力を持って僕達の背中を押していく。お茶でもできるんだから、コーヒーかすでもできるんじゃないかと僕は思った。そうすれば、毎日発生するコーヒーかすをきれいに活用できると思った。期待は大きかった。コーヒーかすと醤油を鍋にいれて火にかけた。
結果、食べ物とは言えないものができあがってしまった。でも、ホッとした自分もいた。もしこれがうまくいったら、僕は次に庭の砂を炒り始めたはずだから。
こういう時、ストーリーへ依存してしまっている僕は、自分自身を見ることができなくなっていて、途中で止めることができない。「節約のためにならなんでもやるべき」となってしまう。いつの間にか自分自身から乖離していて、それどころか人間からも乖離するところまで行こうとしてしまう。ストーリーの中にいると、自分がいったいどこで乖離したのかすらわからなくなる。
という話を澪にしたら、それは小林けんちゃんの話にあった一節を思い出すといった。
小林 ミッションがこうで、ほんとだ。
このためにこういう事業計画があって、
具体的にはこういうタスクがあって、
で、これやる人は?
って言った途端、
「いやいや、どうぞどうぞ」って感じで、
誰もやりたがらない(笑)
なんじゃそりゃって感じだよね。
この場合、ミッションがストーリーとなり、そこへ依存してしまっている。そして、そこにいる人から乖離している。
ストーリーかシーンかで言えば、僕の場合はシーンに依存するほうがうまくいく。だからといって全くストーリーがないかというとそうではないけれど、ストーリーに乗る時は自分自身からの乖離がないかどうかを注意深く見ている。
今では糠もお茶がらもコーヒーかすもなんのためらいもなくコンポストに入れている。コンポストが美味しそうに食べてくれるシーンの楽しさは以前にも書いたとおり。
と、ここまで書いて思い出した。最初に勤めていた会社で僕は毎日終電まで働いていた。病気で入院もした。社会的に意義のある仕事だと思っていたから、どこまでもやれたし、やらないといけないと思っていた。しかも最悪なことに僕はそんな働き方を同僚たちへも暗黙のうちに求めていた。自分の依存するストーリーに他者を巻き込んでいた。ストーリーへの依存が進んで僕は人間としての感覚を失っていた。「人間に戻れなくなる」ところまで、僕は僕が作り出したストーリーに潜行していた。