November 25, 2015

【246】誰と誰が、なぜ戦うのか。

ゼミで加藤周一『現代ヨーロッパの精神』が始まる。

この本に収められた論文が書かれたのは1956年から1959年。つまり書名にある「現代」は、今僕らが居る同時代としての〈現代〉ではない。書名の「現代」を別の言葉で言うとしたら「冷戦時代」だ。 この冷戦時代に書かれた「現代論」は果たして〈現代〉に届きうるのか。

もちろん、それは難しい。

たとえば、現在のシリアの状況は、冷戦時代から大きく変化し、複雑な様相を呈している。未だ政権を見限らない軍を要する政権勢力と反政権勢力の「内戦」、それに乗じたISの勃興、そこへ米仏露などが空爆する。誰が誰と戦っていて、誰が誰を殺そうとし、誰が誰を殺すつもりなく殺しているのか。例えばロシアはシリアにいる誰を、どんな思想を持った誰を空爆しているのか。そのロシア軍機を撃墜したNATOの一員であるトルコの真意はどこにあるのか。

こういった、国家の枠組みを逸脱する〈現代〉的状況が到来する前段階としての1950年代は確かにあって、その影響はいまだ消えていないことがはっきりしている。そういう意味でこの本を読んでみたいという気持ちが湧いている。

November 18, 2015

【245】「入りきらない人」の時代。

〈現代〉とはどういう時代か。

ということがより鮮明に現象として現れているなと思うことに、アノニマスのISへの宣戦布告がある。

アノニマスが「イスラム国」にサイバー攻撃予告、パリ襲撃受け」ロイター

アノニマスは中心やリーダーを持たない。自分がアノニマスだと思えば、アノニマスである。しかし、アノニマスはこの声明で、自分たちが「legion=軍隊」だとしている。(原文はぼくには理解できないので抜粋された翻訳から)

アノニマスの「攻撃」がどのような結果をもたらすか、あるいはもたらさないかについては、ここでは問題にならないし、アノニマスが正しいか間違っているかを論じたいわけでもない。

アノニマスのlegionは、軍隊が国家のためにあった時代は終わったということを意味している。アノニマスが何を守っているのか、しいて言えば「表現の自由」といった思想ぐらいには思える。しいて言えばといったのは、「表現の自由」というのがどういったものとしてアノニマスの〈全体〉を規定しているのか、なかなか読み取れないからだ。それでも、もし仮に「表現の自由」のための「軍隊」だとすれば、その「隊員」は全世界のあらゆる場所にあらゆる民族として存在するだろう。

このアノニマスが、ISという国家として成立しているかどうか未確定な何かに対して戦争する。

これは現代というものの一つの尖端なのではないか。

アノニマスと同様に、実はISというものも、自分がISだと思えばISなのではないか。だとしたらISは、実効支配地域とされている地域外にも、世界中にあらゆる民族として存在するのではないか。

日本的に言えば自分を含んでくるんでくれるようなものとしての、西洋的にいえば自分が立っている場所の基盤としての、〈国家〉は、いよいよ相対化されつつあるように見える。〈現代〉を、そういった〈国家〉のような「自分をくるむ袋」「自分が立つ基盤」がすべて相対化されてしまう時代だと考えると、この〈現代〉において生じていることとして「テロ」を捉えたほうがいい。ISであれ、アノニマスであれ、その集団的非合法活動を指して「テロ」というなら。

もしも、「テロ」を無くす方法があるとしたら、この〈現代〉においての現象としてとらえなおしていくぐらいしかないんじゃないかと思う。〈近代〉あるいは〈前近代〉の国家観からではちょっと届かない気がする。

「テロ」は、〈近代〉国家に寄った世界の有り様に対して、そこに入りきらない人が、〈近代〉国家の有り様に反撃をしているように思える。そして、〈現代〉という時代では、「入りきらない人」という自覚は、世界中の人にじわじわと浸透しつつある。そういう意味で「入りきらない人」の「入りきることを前提とした有り様」に対する先鋭化した行動としての「テロ」はより力をつけていくとも言える。同時に、もし「テロ」をなくすとしたら、世界中の人に浸透しつつあるその同じ「入りきらない人」という自覚をより深くとらえることにあるのではないかなとも思う。

November 17, 2015

【244】「民間人」とは誰か。

「ISへの空爆によって、民間人が死傷した」というような場合の「民間人」は何を示しているのだろう。普通に読むと、ISの「国民」のうち武装していない人、のように読めるけれど、実際にそういう人はいるのだろうか。

ぼくがこの文章を読んで最初に思うことは、この「民間人」は、「ISの実効支配地域に住んでいて武装していない人」という程度のことだ。そして、ここでいう「ISの実効支配地域に住んでいる人」というのは、必ずしもISの「国民」とは限らないのではないか、とも思う。ここでいうISの「国民」というのは、ISの思想に積極的にしろ消極的にしろ同調しているということだけれど。

最終的にこの文章からぼくが読み取るのは、この場合の「民間人」というのは、ISの「国民ではない」のじゃないか、ということだ。だとすれば、冒頭の文章は「ISへの空爆によって、非武装のIS以外の国民が死傷した」ということになる。

November 12, 2015

【243】『おもひでぽろぽろ』

これは名作ではないか。

27歳の主人公の女性が10歳の頃を思い出しながら物語は展開する。「田舎」に憧れ、10歳の頃には存在しなかった「田舎」を自ら作り出していく。

前半は、10歳の自分の記憶は単に感傷的な思い出にすぎない。それが変質するのは、本家で嫁に来ないかとおばあさんに言われたところからで、ここから現実が揺らぎ始める。一旦崩壊を始めた現実は急速に崩れだし、その裂け目から「思い出したくない過去」として封印していた記憶が突如「アベくん」として出現する。その瞬間、現実はその確実性を完全に消失している。

それ以降、もはや、思い出としての「子供の頃の記憶」は遠く隔たったものではなく、現在に直接接続され、27歳と10歳は同一人物として同時に歩き出す。10歳は歩かなかったはずの「その後」を踏み出す。

この感覚を観る者に引き起こされるために、作画と発声はかなり厳密に描かれる必要があったはずだ。ふとしたときに現れる仕草、姿勢、ため息などで、高畑勲はこの少女がこの女性になったのだ、と自然に思わせることに成功している。観る者に意識できるかどうかぎりぎりの表現で、二人の重ねあわせを実現している。だからこそ、27歳と10歳は接続されうる。

僕たちは常に過去から切り離されている。思い出として、過去の出来事として、それを遠くに、もう戻ることができない、ただ脳裏に写しだされた景色として眺めてしまいがちだ。時間が離れれば離れるほど、その隙間に悲しさが埋め込まれていく。しかしふとした瞬間、過去は、まるで今がその時であるかのように思えることがある。



November 9, 2015

【242】下世話に、露骨に。

下世話に、露骨に。
そのうえ、無様で、滑稽で。

円も螺旋も描けずに、
ただただ巻き太っていく
デタラメに巻いたいびつな糸巻き。

時々芯棒がずるりと抜けそうになって、
だらりと垂れ下がった糸の輪を
上から無理やり巻き込んでいく。

膨大な資源を浪費した盛大な堂々巡り。

そういうことを真面目にやっています。

November 8, 2015

【241】最も弱い思想。

もう少しでそれが何かわかりそうと目を開き、それを掴みたいと手を伸ばし、身を乗り出し、踏ん張った途端、その踏ん張ったところが崩落していくのはいつものことだ。盤石だと思っていた現実がウエハースのように砕けていく感触を足の裏で感じる。バランスを崩して倒れこむように自分の足で開けた穴に投げ込まれていく。破片が舞い上がるのを唖然と眺めながら、背後にゆっくりと倒れこみ、前を向いていたはずの視線は、空を向く。ようやく崩落が終わるとき、強く全身が打ちつけられ、何かを掴むという意思は息絶える。

現実はそれが確かであってほしいと思うまさにその瞬間、もっとも脆い。意思が息絶えたあとの空白の時間だけが強固で、今度こそ危なかったと言い遺して眠る。やがて新たに意識となっていくだろう先触れがうっすらと漂い始め、霧となり、雲となり、まとまって、輪郭を持ち出し、その輪郭を確かなものとして掴もうと目を開き、そして。

すべてのものを突き通す矛で誰よりも激しい一撃を突き、すべてのものを受け止める盾で誰よりも堅く受け止めるのは、誰よりも僕だ。矛と盾とを持ち替えながら、どこまでも続く袋小路を前に前に進んでいく。曲がったはずの角は、いつまでも見えない。

ただ矛と盾のあらゆるところのあらゆるところに、痛く痛い美しく美しい傷が残った。

というのがポストモダニズムなのかな。

November 6, 2015

【240】自己表出の瞬間。言語とは。

ぱーちゃんのブログを読んでぞっとした。
ぼくにとって書くことや話すこと

これはまるで僕が書いたのではないか、と思ったからだ。

こういうときに、人間関係に重きをおく人はおそらくこう見立てるだろう。

ぱーちゃんと大谷は友達だ。
これまでにたくさんの言葉を交わした。
特にこういった表現にまつわるようなことについて交換している。
ぱーちゃんの考えが大谷に、
大谷の考えがぱーちゃんに、
相互に影響を与え合っているのだ。
その結果、二人の考えていることは融合し、
ぱーちゃんと大谷は一つになっているのだ。

と。

でも、僕はそう思わない。

もちろん、ぱーちゃんと僕との間での相互影響はあるだろうけれど、
だからといって、ぱーちゃんと僕とは同じではない。
たとえ、どれほど濃厚な人間関係があったとしても、
書くという表出において、
ぱーちゃんの書いたものが「まるで僕が書いたかのように思える」ようなことはそう簡単には生じ得ない。

人間関係の融合で説明できるせいぜいの射程は「ぱーちゃんの書いたものは僕が考えていたことと同じだ」「ぱーちゃんの文体は僕の文体と同じだ」程度のことにすぎない。

そんなに言語は甘くない。
言語はその程度のものではない。

関係性による解釈は、自己表出を見ていない。
その点において、
言語を愚弄している。
人を愚弄している。

November 5, 2015

【239】〈僕〉と自然。

〈僕〉以外はみんな自然だと思っている。

〈僕〉というのは、「僕が」という時の最初の意識のまとまりとしての自己で、大谷という人間を指しているわけではなく、単に「僕が」と書き始める時の〈僕〉のこと。
自分の体も自然の一部だし、他人も自然の一部で、
庭の草や木や石とかわらない。
それぞれがそれぞれの特性をもった自然。

晴れている日は洗濯物が乾きやすい。
雨の日は洗濯物が乾きにくい。
洗濯物は乾いてほしいことが多いので、
だいたい晴れている日に干せばいい。
そんなにすぐに乾いてほしいわけでなければ、
雨の日に洗濯してもいい。
乾くことなんてどうでもいいときは、
いつでも洗濯すればいい。
洗濯したいのであれば。

〈僕〉が規定しさえしなければ、自然は何も拘束されない。

自然の一部である他人もそういうふうに〈僕〉には思えている。

〈僕〉にとって最後まで不自然な〈僕〉というものだけを〈僕〉はどうにかするのだけど、それはすべての自然と〈僕〉との一対一のやり取りになる。