〈現代〉とはどういう時代か。
ということがより鮮明に現象として現れているなと思うことに、アノニマスのISへの宣戦布告がある。
「
アノニマスが「イスラム国」にサイバー攻撃予告、パリ襲撃受け」ロイター
アノニマスは中心やリーダーを持たない。自分がアノニマスだと思えば、アノニマスである。しかし、アノニマスはこの声明で、自分たちが「legion=軍隊」だとしている。(原文はぼくには理解できないので抜粋された翻訳から)
アノニマスの「攻撃」がどのような結果をもたらすか、あるいはもたらさないかについては、ここでは問題にならないし、アノニマスが正しいか間違っているかを論じたいわけでもない。
アノニマスのlegionは、軍隊が国家のためにあった時代は終わったということを意味している。アノニマスが何を守っているのか、しいて言えば「表現の自由」といった思想ぐらいには思える。しいて言えばといったのは、「表現の自由」というのがどういったものとしてアノニマスの〈全体〉を規定しているのか、なかなか読み取れないからだ。それでも、もし仮に「表現の自由」のための「軍隊」だとすれば、その「隊員」は全世界のあらゆる場所にあらゆる民族として存在するだろう。
このアノニマスが、ISという国家として成立しているかどうか未確定な何かに対して戦争する。
これは現代というものの一つの尖端なのではないか。
アノニマスと同様に、実はISというものも、自分がISだと思えばISなのではないか。だとしたらISは、実効支配地域とされている地域外にも、世界中にあらゆる民族として存在するのではないか。
日本的に言えば自分を含んでくるんでくれるようなものとしての、西洋的にいえば自分が立っている場所の基盤としての、〈国家〉は、いよいよ相対化されつつあるように見える。〈現代〉を、そういった〈国家〉のような「自分をくるむ袋」「自分が立つ基盤」がすべて相対化されてしまう時代だと考えると、この〈現代〉において生じていることとして「テロ」を捉えたほうがいい。ISであれ、アノニマスであれ、その集団的非合法活動を指して「テロ」というなら。
もしも、「テロ」を無くす方法があるとしたら、この〈現代〉においての現象としてとらえなおしていくぐらいしかないんじゃないかと思う。〈近代〉あるいは〈前近代〉の国家観からではちょっと届かない気がする。
「テロ」は、〈近代〉国家に寄った世界の有り様に対して、そこに入りきらない人が、〈近代〉国家の有り様に反撃をしているように思える。そして、〈現代〉という時代では、「入りきらない人」という自覚は、世界中の人にじわじわと浸透しつつある。そういう意味で「入りきらない人」の「入りきることを前提とした有り様」に対する先鋭化した行動としての「テロ」はより力をつけていくとも言える。同時に、もし「テロ」をなくすとしたら、世界中の人に浸透しつつあるその同じ「入りきらない人」という自覚をより深くとらえることにあるのではないかなとも思う。