庭でなにやら声がするので下りてみると、となりのおばちゃんと娘さん二人、娘さんのうちの一人の旦那さんが、おばちゃんちのザボンの木の枝を剪定している。わりと大きな枝を切っていたので、
「捨てるならちょうだい。薪にちょうどいいねん」
というと、ええのん?わるいなぁと言いながら渡してくれた。剪定は時々しているけど、ちょうど年末年始で娘さん夫婦が帰ってきているからか、大規模にやっている。すでにいくつか大きな枝が切り落とされていたのでそれもまとめてもらった。
もらった枝はただ切り落としただけで、そこから無数に小枝が出ているし、葉も大量についている。それが僕にとっては、葉は庭に撒いておけば腐葉土になるし、太いところの枝は七輪を使うのにちょうどいい。だから本当にいい貰い物なのだ。
でも、おばちゃんにとっては、僕がもらわなければ、その葉や枝を細かくしてゴミに出さなければいけないから、手間がかかるものである。
おばちゃんはザボンを毎年、大切に大切に育てる。毎日様子を見ながら、秋ごろ、実がついて大きくなる時期に雨が少ないと水道の水を流しっぱなしにしてでも、大きくなるようにする。実が付きすぎても一つ一つは大きくならないので、いいやつだけを残すようにしていると思う。
そんなザボンをいつも年末になると収穫して人に配ってまわる。僕のところにも毎年分けてくれる。とても美味しい。去年、そのざぼんの皮を澪が砂糖菓子にしておばちゃんにあげたらとても喜んで、そして、うまいことつくったなと褒めてくれた。おばちゃんに褒められるということは本当にうまいことできていると、僕達はうれしくなる。
もらった枝の葉を落とし、枝を薪にちょうどいい長さに切りそろえていると、おばちゃんがやってきて、大変やな、ようけつくってしもたなとすまなそうにしている。僕にとっては楽しい作業で、ぶどうの木の根元に葉を山盛りにして、これがぶどうの栄養になるところを想像したりしているし、薪は薪で友達がやってきたときに七輪でホルモンでも焼こうと思っていたりする。だから、体力的にはたしかに疲れる仕事ではあるけれど、苦になるようなことはない。
おばちゃんは、そういったことと関係あるような、無いような絶妙のタイミングで、あんたんとこ白菜いるか?水菜いるか?ときいてくる。
「うん、いる。うれしい」
と答えると、おばちゃんは家に戻り、しばらくすると袋いっぱいの野菜を持ってきてくれる。娘がつくったんやけどな、という。僕は美味しそうな野菜を持って、澪に見せる。澪も驚いてよろこぶ。
こういう出来事が時々起こる。起こるたびに、僕が欲しい物を欲しいと言えたことにうれしくなる。欲しい物をもらって、さらに欲しい物をもらっているわけだけど、それが心苦しいという感じはない。きっとおばちゃんもそうなんだろうと思っている。
いつもそういうふうな近所付き合いをしているから、こういうことが起こる、と言ってしまうとなんだかつまらない。いつもそういうふうな付き合いをしていても、今日、僕も澪も家にいなければこういうことは起こらない。たとえ居たとしても、僕が庭にでなければ、起こらない。庭に出たとしても、
「捨てるならちょうだい。薪にちょうどええねん」
と言わなければ起こらない。
言ったとしても、おばちゃんがええのん?と答えなければ、起こらない。
どんなに親密な付き合いをしていようが、一瞬の契機の奇跡のような積み重ねがなければ、起こらない。一瞬の契機の奇跡のような積み重ねが、結果として、そういう親密な付き合いを生み出しているというだけで、この順序は逆ではないのだ。