単純な冊数、ページ数、文字数でもおそらくある程度そうなるだろうし、本の「質」にまで踏み込んで重み付けすれば、さらに極端な「高読者層」が現れるだろう。一般の人の百倍、千倍(ひょっとしたら万倍)といった規模で本を読む人たち。
同じように、音楽をたくさん聴く(奏でる)人、絵をたくさん見る(描く)人にもこの分布は当てはまる。一般の百倍、千倍のリソース(時間、エネルギー)を投下する人たちが存在する。音楽や絵や本のような文化的なものに限らず、どのような領域であれ、そのような「ある対象領域(ディシプリン)」を設定することができれば、同じような分布を描き、グラフの右端に存在する人(マニア)が浮かび上がる。
人の話を聞いて記事を書くという仕事をしていた経験上、こういう冪乗則の右側、いわゆるロングテール部分にいる人の話はまず間違いなく面白い。ある対象に対し、一般の人の百倍、千倍の資源を投下した人がその対象領域について語るとき、その内容の面白さはもちろん、その上、話体のレベルから異なっていると感じる。
話を聞く前にはさほど興味がなくても、話を聞き終わる頃には興味が出ているということがあり得るし、まず話し方からして何かが違うと思わせ、集中を促すような雰囲気をまとっている。なにより納得性が高く「話術」のレベルで測れない浸透度がある。
膨大な具体例に直面した結果、積み上がった高倍率な視界だけではなく、「読むとはなにか」「音楽とはなにか」「絵とはなにか」といった一般的には愚問でしかない「そもそも論」に数限りなく晒され、無為な自問自答を繰り返してきた基礎体力のようなものが醸し出すなにかがあるのだと思う。
しかし、ここで問題になるのは、単純な資源投下量ではなく、その資源を「どこに」投下したかという領域の事後設定性にある。この領域は、予め設定されているわけではなく、過剰に投下されたあとに、偏差として浮かび上がってくるもので、たとえれば、数限りなく石を投げたあとに、たくさん落ちていた場所をざっくりと囲む線のようなものだ。そう簡単に領域は設定できない。
次に問題になるのが、その領域自体の「適格性」だ。
例えば、人を罵ること、貶めること、騙すこと、傷つけること、殺すこと、などに対し、膨大なエネルギーを投下してきた人の話は、たしかに「面白く、興味を引く」だろう。しかし、その話を本当に聞くべきかどうか。聞くとすればどのような領域設定となるのか。その領域設定自体の適格性が問われる。
これらのことを考慮した上で、「ある領域」についての冪乗則の右側ロングテール部分にいる人の話を聞くことを「講義」と名付けて、いくつかの講義が定期的に開かれるような場所をつくりたい。イメージとしては「大学」であり、ここに書いてきたことは僕の理想的な大学像の基礎的な要件である(ごく当たり前のことだけど)。