May 23, 2025

連休後くらいから5月下旬ごろ。

病院への道中。

出産が近づいてきたからかなんなのかわからなけど、産まれてきてどうかるのか、どれくらい元気で生まれてくれるのか不安になったりもしていた。
このひと月ほどそんな不安はあまりなく、入院なく家で過ごせるかどうかの方が目の前にあって産後のことはあんまり気にできなかった。

家からあまり出ずで、入院かも、と気にしながらの生活は落ち着きはしない、疲労もある、なのにこれはこれでひと月も経てば安定するんだなと思う。とらちゃんが生きてくれてて、名前もついて、なんとなく一緒にいるのは楽しかったりもするから、生まれてきていなくなるかもと思うと先に進むのも緊張する。

いろんなことがあってすごい長い時間を一緒にすごしてる感じがして、妊娠期間としては結構幸せだったのではないかと思った。
2人目のようちゃんの時は、初期の出血と入院をのぞいたら順調で安産でなにも覚えてないわけじゃないけど書き残したいようなことはあまりなかった。

こんなふうに困ることでもなければ、ここまでいろんな人に頼ることもなかっただろうし、頼ったら助けてくれる人がいるということが実際に起こって経験してしまうということは、価値観や今後の人生を変える出来事かもしれないと思った。
人生が変わらないなんてことは、どんなひとりの人間(特に自分の子となればなおさら)との関りのなかにもないのだろうと思うけれど。

でも、そもそも正常ではなく異常だと言われている子との生活だったからやっぱりこれまでにないことをいろいろ考えたと思う。異常(マイノリティ)の意識というか。人に話しながらなんだかきっと理解してもらえないだろうと思うことがベースに侵入してきた。
それで、自分がこれまでどんなことをしていてもマジョリティの意識でいたんだなと逆にわかった。


診察が終わった。
来週は2回目の羊水除去。
相変わらず、頭は大きくなっており骨盤から出ない可能性もあるので前回の健診で予告されたとおり帝王切開を視野にいれつつになった。

帝王切開になる条件は今のところ大きく二つで、頭の直径が10センチを超えることと、とらちゃんの心臓が弱いので経膣分娩の方向で一旦行ったとしても耐えれそうになければ帝王切開への切り替えとのことだった。
その他、予期せぬ事態はまた当然別にあるだろうけど。
経膣分娩にしても、家で自然に陣痛を待つのは羊水過多だとリスクが大きいので入院して誘発を行うとのこと。破水したときに、いろいろ危険の可能性があるそうで、胎盤はがれちゃったりとか。
ようちゃんの時の出産が突然の破水から始まっているので、この点は自分でも不安だった。そもそも、どんだけ水でるの?みたいな単純なことも含めて。

そんな感じで羊水が多すぎるまま分娩もよくないみたいで、しかも水が多いと逆子になる可能性高く、それも含めて羊水除去にはなった。
帝王切開なら37週に入る6月8日以降の早い時期に、経膣分娩でも予定日より大分早い出産になるんじゃないかな。


芸術祭が終わってからしばらくしんどかった体調は、その後なんだか少し落ち着いてたけど、本格的に重くなってきて寝がえりなど大変。腰にもきている。息苦しさは大丈夫かと病院では聞かれるけど、それはほぼなく、胃が気持ち悪くはるけど食べれないというほどでもない。運動はほとんどできてないので、帝王切開でないとしたら、こんなんで出産の体力もつのかと不安になったりする。


来週の羊水除去の入院の話のことだったかなんだったか忘れてしまったけど、ようちゃんが「みおちゃんととらちゃん病院行くの。ようちゃん、ひとりぼっちになっちゃう」と言っていた。
妙に絵本っぽい言い回しと思ったけど、ようちゃんは聞き知った言い方を、しかも割と劇的なやつでも、試すのが好きだからそうなんだろうなと思う。
その時は、一人じゃないやんと突っ込んだ気もするけど、寂しいとかそういうニュアンスをちゃんとつかんでるんだろうなと思った。
それを言った直後には、あらたと絡んで笑い転げていた。大したことじゃないのか、と思う。と同時にまあ、何かで頭のなか一色なんてことの方が実はあんまりないことなんだろうと思う。うちもとらちゃんのことは頭にのぼるけれど、他にもいろいろあって忘れているようなときもそれなりにある。でも全部完全にバラバラにあるわけでもなく、いろんな形で結びついているとは思う。





May 13, 2025

第5回まるネコ堂芸術祭に関する記事の紹介。

 第5回まるネコ堂芸術祭、今年は来ていただいた方、記者の方、そして出展者の方もいろいろ書いてもらって、なんか嬉しかったです。せっかくなので私が見つけた範囲ですが紹介したいと思います。


「2025.4.20 - 2025.4.26」

「点滅日記」より

まずは、来てくださった方のブログ。
ラジオも確か全部聞いてくれていて初日に来場。まるネコ堂芸術祭のことを特にとりあげて書こうというブログではないんですが、日々の出来事のなかで記録してもらったのは特別な感じ。ラジオは広報のためにと思って始めた。うちうちで出展者の話をある種フォーマルに聞くとてもいい機会にはなったけど、やっぱりリスナーがいるのはありがたく、会場に来てくれて嬉しかった。


【宇治市】一軒家をリノベーションした独特の空気感の中、芸術作品を芸術家と共に楽しめる「まるネコ堂芸術祭」が開催

「号外NET 宇治市城陽市」より

開催前に宣伝もしてくださり、初日のオープニングパーティーにいらしてくださいました。忙しい中ありがとうございます。事前にこのブログやサイトも見てくださっていて、写真もたくさん掲載してもらい丁寧な記事が嬉しいです。メディアに掲載してくれるからというだけでなく、来てもらえるのが嬉しい記者さんです。


まるネコ堂芸術祭は、見るよりやるのがたのしい。
まるネコ堂芸術祭から帰ってきた。

「佐川友美 ーSAGAWA TOMOMI」より

出展者の佐川友美さん、さがちゃんのブログより。
さがちゃんとは芸術祭以外でのかかわりもあるが、より濃厚になって過ごしているのがたのしかった。芸術祭を楽しんでくれる中で、まるネコ堂の生活というか、私たちの一つ一つの生活での選択をまざまざと観察している。それを文章にしてくれているのがパンチがある。こんなふうに書く人は少ないかもしれないけど、思っている人はそれなりにいても不思議じゃないと思った。そういうことを書いちゃう露骨さがさがちゃんの文章の魅力かもしれない。
ニューヨークに引っ越すかもということでカーテンの出番が短くなってしまうのではないか、意外に早い作り変えがあるのか、その辺もちょっと気になる。


「N!」より

出展者の西村眸さん、ひとみさんのブログより。4部作の大作。
個人的には①を結構面白く読んだ。すゆみさんのワークショップに参加した時の感想だ。やることとしてはピアノの生演奏を聴きながら絵を描くということで、そのことは前から知っていたが私は参加しなかった。ひとみさんが音楽を聴いてもほぼ何もイメージできないというようなことを書いているけど、窓越しに音楽を聴きながら私もなにも思い浮かべられなかった。そこから何かしよう、何か考えようと試行錯誤するひとみさんの記述になんだか突きつけられた。うちだったらそんなふうに楽しめただろうか。そういう機会があれば楽しんでみたいと思った。④のふりかえりの果敢な感じも印象に残った。


すゆみさんの5月7日のInstagramの投稿

「@sakana_no_suyumi」より

出展者のすゆみさん。本当にエナジェティックで、投稿に付された文章もそういう力を感じた。完成度ということの前に、やりたさを素手でつかみ取っていく感じがする。私とほぼ同じ予定日で妊娠されていて、体調不良もろもろで低空飛行気味だった私から見るとめっちゃ元気で体力があるように見えた。芸術祭にも4日間、どこかの時間は会場におられた。そこにはこの8年やそれ以前の経験が下支えするものがあるんだろうと思う。そういうことを思う展示でもあった。制作の進展もだけど安産もお祈りしてます。



こういう文章を読めるのはとてもありがたかったです。
紹介記事以外も、面白い文章や写真を掲載している方ばかりなので是非是非フォローしたり、他の記事も読んでみたりしてください!






May 11, 2025

ちょっと久々の妊婦健診。

2週間ちょいぶりの妊婦健診があった。
朝、新とようちゃんに今日は病院行くと言うと、ようちゃんが「みおちゃん、病院(行くの)いや」と言っていた。最近抱っこができないし普段は本当に私は人気がない。「みおちゃん、いやーーーーー。たかがいいのーーー。」と走って逃げることもしばしば。それでも、そんなこと言うんやなと思った。羊水除去の時に一泊帰って来なかったのをよく覚えてるのかも。

羊水が多いのはしんどい、けれど出来れば羊水除去の2回目も避けたい。ちょっと前からとらちゃんに羊水を飲むよう頼んでみた。
無理なお願いなのか、それならやってみようと思える範囲なのか、とらちゃんの体調は不明。あらたとようちゃんも、時折一緒に頼んでくれる。2人はとらちゃんとの交流は、私のヘソ越しが一番効果的に思えるのか、ヘソをマイクのようにして話す。羊水過多だし、お腹パンパンやからもうほぼ平らなおへそになっている。


病院ではとらちゃんの心エコーの2回目。
この検査が結構疲れる。
1時間近くエコーを取り続ける。
流石に2回目で、その辺も知ってるので遠慮なく寝ていたけど、動かないようにと緊張はするのでぐったりする。
結果は1回目と特に変わらずで、左右の心室の間に穴がある。手術が必要な可能性は高そうだけど、詳しいことは生まれてみないとわからない。


心エコーの説明が終わると、妊婦健診。
こちらもエコーをして、子宮口はちゃんと閉じてる、との言葉にとりあえずほっとする。今日も帰れる。
羊水除去の提案があるかもと思ってたけど、うちが苦しくなければ様子見でよいようだった。気持ち悪くなることもあるけど、耐えれないほどではないのでそう伝えた。

とらちゃんは頭がかなりでかいようで、今後様子を見ないとわからないけど、骨盤を通らない大きさになったら帝王切開だそうだ。念のため帝王切開できるよう今後の検査など予定していくらしい。いろいろ体調には問題がありそうなとらちゃんなので、なにかそういう理由で帝王切開はあり得るかと思ってたけど、まさかそんなわかりやすい物理的な理由で帝王切開とは。
どうやら他には、帝王切開をしないといけない理由は今のところないみたい。今後そんなに頭ばっかり大きくならないといいけど。

そっから、事務処理がいろいろあって、更に自分の心電図。
心電図なんか妊娠中にやったの初めてでこんなのするのかと思った。そっから会計で、なんやかんやで4時間くらい病院にいた。

帰り際、駅まで歩いている途中なんだか疲れていた。急に「京都 蔦屋書店」でやっている山口真人展のことを思い出してしまい行きたなった。ここからさほど遠くない。いくら理由があるとはいえ、毎回のように長時間の病院にまったくやさぐれないわけがない。展示見たいなぁ。なんだか疲れて甘い物が欲しくなってしまった時の感じを思い出す。行っても大丈夫じゃないかと思ってしまったけど、そんな事でなんかあれば結構後悔すると思ってやめておいた。
見たかったなあ。また機会があれば。


生産期に入る37週まで、だいたい4週間になった。羊水過多は早産になりやすく、入院も覚悟してと言われたのが3月末だったので、なんとか一カ月ちょい耐えた。

いったいとらちゃんはどんな人なんだろか。
せっかくなので、これからの生活のことを長期的に考えてみたいと思ってたけど、家にいれる間にやれることはやりたいと思うと目の前のことに走っている気もする。


夕方から母が来てくれてしばらくしてようちゃんが帰ってきた。「おかえり」と声をかけたけど、ようちゃんは一目散に母の方に走って行った。




May 9, 2025

第5回まるネコ堂芸術祭レビュー、その2

他の出展者の作品への感想です。

オニィ・ワールド

大谷 美緒(「あんころもち」)

6歳のアラタが描いた鬼の絵を元にしたLINEスタンプやシール。「芸術作品」というよりももっと、気軽、気楽、身近、チープなところに表現の領域を作り出している。「作品を作ること」が主目的というよりも、「作り続けたさ」を自分(達)に与えようとしている。作ることを継続するために綱渡りのように断続的に成果を実らせていくスリリングさ。
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ZINEつくってみた!

西村 眸

写真、イラスト、テキストの混じったzine。写真のシャープな印象とテキストのちょっと不思議な感じ、イラストの可愛らしさに色々な自分自身が表現されている。それぞれの異なるキャラクターが入った「雑誌」的自分。自分を部分として扱わないでいる。トップの写真は展示場所でもあるその部屋を最近写したものなのに、なぜか異国情緒や遠くの憧憬、懐かしさを感じさせる。
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からだを感じる 見ている意識

宮後 りさ

展示空間の構成が練られている。突き当たりの薄暗がりに浮かび上がる青い絵が、展示方法と相まって印象的。今回は絵画がメイン作品だろうけれど、インスタレーションをやっても面白そう。冊子の形で提示されたテキストは固有名詞が説明なしにどんどん出て来て、隙間が多いが、生身の正直な感覚が描かれていて独特のドライブ感を持っている。読んでいる側が積極的に埋めようとして文章に引き込まれていく。
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私とカーテン、付き合いたて

佐川 友美

布の質感がとても良い上質なカーテン。こうして作品として提示されると、これまで僕がカーテンというものに「貧相な役割」しか与えて来なかったことに気付かされる。美術作品としてのカーテンと言うと柄やレースといった装飾的な要素を思い描いていたが、無地で生成り、シンプルな縫製がとても機能的で美しかった。日差しの透け具合が絶妙。手縫いであることを納得させる存在感がある。たしかに、カーテンとも長く一緒に過ごしていけるとうれしいなと思った。
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波を乗せて、海は、まわる

今井 雅子

昨年まではモビールを作っていたのに、今年は起き上がりこぶしなのか、とちょっと驚いたけれど、作品を見るとモビールと同じ雰囲気があり、実は同じ「ジャンル」になり得るのかと発見があった。物理的運動と美的造形の重なった場所を、一つの表現領域として提示している。風鈴や風車なども同じ場所にあるかもしれない。揺れと光・色が重なるアイデアを形にする制作技術の洗練を感じる。
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さかなのすゆみー星になる 〜アートは自分から自分へのギフト〜

すゆみ

一部屋全てを作品で埋めるパワー。溢れる色、形、物語が、躊躇いなく表に出ているように思える。貪欲さや欲張ることを肯定している感じがすがすがしく心地よい。やってみたいことに果敢に挑戦していくことやその結果の失敗、挫折に苦しむこともすべて内部に含んだ、力強い肯定的な赤い部屋。

狭間に揺れる情景

濵田恒太朗

昨年までの「ヨハネの黙示録」シリーズを現代の自分自身の境遇の中で解釈し直している感じ。日常の中の東京の街並みを、黙示録的に見える瞬間として捉えているようにも見える。そういえば僕も、何年に一度、ものすごいとしか言いようのない夕焼けに遭遇して、「あの夕日に見える赤い球体は、実は、遠方で炸裂した新型爆弾なのではないか」と身震いする時があるが、それを思い出した。制作過程の「うまくいかなさ」を露呈した冊子が添えられており、そのメイキング・プロセスに独特の魅力があるが、完成した油画作品が与える印象とズレがあって、それが一致してくると、さらに奥行きがでるかもしれない。

祈り

山本成実

内容的には、「自分なんて」という「隠れている」表現だけど、選ばれている画材は、しっかりした製本のMDノートにペン。一度書いてしまえば、失敗したと思っても、書き直したり、ページを破ったり、別の色で塗り込めたりできない。あたかも下書き無し、推敲なしで、いきなり書きつけたかのように見える。独特のリアリティとみずみずしさがある。


どの作品も何かを感じたり思ったり考えたりと触発されるものがあり、この作品たちが存在するなかで過ごせたのは有意義でした。

May 8, 2025

第5回まるネコ堂芸術祭レビュー、その1

西村眸さんがブログで芸術祭の振り返りをしていて、それがとても良かったので真似します。

いろいろと考えることがあったので、第5回まるネコ堂芸術祭について、書き留めておきたいことを残しておきます。

芸術祭期間中について

前回(第4回)までは、鑑賞の邪魔をしないほうが良いのではないかと、観に来てくださった方の様子を伺っていたところがあったけれど、今回はできるだけ喋りかけてみることをやってみました。自分の作品についてだけではなく、他の出展者の作品についても僕なりに思うことや感じることを勝手にしゃべりました。

結果どうなんだろうか。鬱陶しがられていたかもしれないし、そうでもなかったのかもしれない。それぞれの鑑賞者にとってどうだったのかは正直なところよくわかりません。

でも一つ確実に言えることは、僕自身はとても楽しかった。

自分が話をしたり、なにか言ってもらったり。それに対してまた何か考えて話す、そういった複数のやり取りができた。しかもそのやり取りはほかでもない、自分自身の作品や表現、一緒にやってきた仲間の作品を通してだった。

とても幸せだった。

自作品「アラタ文字によるポスター用手描きラフ」について

今回の自分の制作を通して得られたも最も大きいことは、自分が表現したいと欲する漠然とした雰囲気を、最終的に作品として成立させるためには、形式やスタイルというのが重要なのだと実感できたこと。

形式が重要なのだということは理解はしていたけれど、形式の持つ重要性の、一体何がどう重要なのか、という実感はあまりなかった。今回とりあえず、その重要性が、要するに「作品として成立するかどうか」という判断そのもの結びついていたのだ、と思えた。

いただいた感想から、「手応え未満、記号成立未満の感じ」について。

ありがたいことに作品に対して沢山感想をいただいた。すべてとても貴重で、大事にします。ありがとうございます。

そのなかで一つだけ挙げると「フレームを傾けると文字がばらばらと落っこちそう」というものが印象的だった。これは全く想定していなかった。けれど、そう言われて見れば確かにそうで、自分でも驚いた。

後付で考えてみると。

アラタ文字は見様見真似でアラタが見本を模写したもの。正規の文字学習で「文字として練習で書いたもの」とは異なっている。現に、この春から小学生になって国語の時間でアラタはひらがなを点線をなぞるようにして練習しているが、「アラタ文字」のようなものは書いていない。

アラタ文字は、文字が文字として確定される以前の、固定化前の図像で、それがかろうじて文字としても読める状態。記号というもの自体がまだ、アラタのなかでも完成していない「これで字(記号)になっているのだろうか」という不確定な感覚で描かれていた。その仮止めの感じが、画面を不安定にさせていたのかもしれない。

「こんなんでいいのだろうか」。何かを確かに手に握ったという「手応え」に至る前の感じ。とても興味深い。この感じをもう少し進めてみたいと思いました。ありがとうございます。


May 7, 2025

第5回まるネコ堂芸術祭。「あんころもち」をやって。

第5回まるネコ堂芸術祭が終わった。
出展者での振り返りが終わって、いよいよ終わったなぁという気分が。

寂しいなぁと思うくらい楽しかった。
今年の2月3月はあらたが保育園の卒園で、大変そうだった。4月になって学校を楽しみ始めた新が「小学校、楽しいな。でも、行く前は楽しいって知らんかってん」と言っていた。

第6回も開催するつもりでいる。作っていくのは自分たちだけど、やる前から楽しいかどうかわからないのは一緒やなと思った。前が楽しかった分、次はどうなるんやろうという気持ちもある。誰が参加するのかもわからないし、同じ人でも去年と今年では事情も、やることも違う。
次も楽しんでいけたらなと思う。

オープン前に出展者でのオープニングミーティング。残念ながら、あんころもちの新は不在。

初日に、出展者が集合することはこの2-3年普通のことになってきたけど、コロナの頃に始まった芸術祭なので、最初にみんなが集まった時の感慨をいつも思い出す。それに遠方からもこうやって駆けつけてくれることがありがたい。
残念ながら新は学校行事が重なり今回不在。

芸術祭全体のことや出展作品に関して書きたい気持ちもあるけど、とにかく自分のやったことについて書いておきたいと思う。

ちなみに、芸術祭サイトではこんなふうに作品案内を出しました。


今年は「あんころもち」というユニットを6歳の息子の新と組んで出展。
正確に言うと二人で出展することを決めてから、ユニット名は決まった。
新が、説明の文を書いたり、考えたりしたことを発言するということは今は難しく「あんころもち」の外相・広報はほぼわたし。新の弁明は、いつか聞けることがあれば教えて欲しい。

ちょっと話はそれる感じもするが、大学の時に作品があるといろんなことが思い出せるなと気づいた。この絵を描いた時期、こんなことがあったなとか。絵を見ても思い出すけど、記憶というのが絵に絡まってある感じがして、いろいろ思い出したときに絵のことも絡まって思い出してしまう時がある。
周りの反応や、照れくささやそんな感情も引っ張り出されてくれる。

今回の作品、制作の日々をどんなふうに未来に思い出すのか楽しみだし、きっといろいろ思い出せるような期間になったであろうことがすでに結構嬉しい。

しかし正直、開催時期が近づくにつれて喧嘩を連発していた。まあでもそれを思い出したくないことは全然ないし、あんだけ喧嘩したのに、「あんころもち、一旦終わりやな、お疲れ様。」とあらたに言うと、「まだ終わってないで」と返ってきた。


作品の完成度みたいなところの意識が新と私では違うので、その辺が合わせきれなくてヤキモキすることは多かった。「もうちょっと」と思うと何回でもやり直したい気分になるときもあるけど、新はそういうことはなかった。「やってみる」ことの方が大事で楽しいことのようだった。
自分がイライラし始めると、「ああ、この辺に自分のこだわりやら、譲りにくいことがあるのね」とわかるようになってきた。そういう自分自身を知るのに、外部からの圧力があるのはユニットを組んでいることの利点だろうと思う。
新は「やってみる」から「作品完成」までの距離が随分短い。もう、「やってみたものは作品完成」くらいの距離だ。でもなんかその瞬発力はそれはそれで見習うところがある。



新はそれなりに興味を長期間引っ張れる人だと思うけど、興味の持ち方や継続の感じも違うなと思った。この辺はどううまく行ったのかわからないけど、ずっと楽しいものを作りたい。楽しくやりたいという感覚がわたしにあった。子どもがなにか熱心にやってるときは何らかの楽しさともなっているという姿を見て来たからだと思う。
結果的に作ったものがLINEスタンプとシールになったのもそれが理由だと思う。
LINEスタンプは手っ取り早さもあってやったが、新はLINEを使わないという事実が出来上がってからあんまりだったなと思った。うちは楽しく使っている。
シールは楽しかった。出来上がったものを見て反省があったり、遊びがあった。
実際には、一時的に面倒になったりしつつだけど、沈んだり浮かんだりしつつ進んだ。


4月の月1のミーティングで制作途中のものを見せびらかす。


芸術祭が終わってから次はこんなシールやりたいと、新のリクエストがあり、それも作った。それはもう発表するものではないと思うと、あらたの好きにデザインさせてそんなにやきもきもしなかった。自分たちで作れるおもちゃが出来た感じがして楽しかった。そうだ、絵本作りが頓挫しているが絵本を描きたかったのも、自分たちが読む・遊ぶ絵本が欲しかったからだった。

芸術祭2日目から在廊した新は、お客さんが来るとシールを楽しそうに配り歩いていた。無料(投げ銭歓迎)で配ることにしていた。そういう仕組みも最後の最後で、喧嘩の末の、双方の妥協を経て直前に決まった。無料だから多少無理やりでも気兼ねなく渡すことができた、それは今回よかったと振り返ってみると思う。
シールを渡すとき口下手で説明もあいまいなので、しっかりしてくれよと思ったりもしたが、必死に渡しに行く姿を見て、この制作は新のなにかにはなったんだなぁと思った。

オニィステッカーは、12種類。箱から1枚引いてもらう。どの柄が当たるかはわからない。


原画とか誰かのアイデアをデジタル化していくというオペレーションの楽しみを見つけれたのも今回とてもよかった。デジタルにするときに、こういう風にできるよという自分の技量やアイデアを入れれるのも楽しい。作品の署名はもちろんアイデアを出した人にあるけど、なんだか自分とは関係ない他人の作品だと思わない感じが出てきた気がする。

まだまだやってみたいことがいろいろある。
いろいろ途中であまり締めくくれなかった。



May 4, 2025

今年の連休の考えごと(メモのような)。

芸術祭のあと、また羊水が増えたような気がして芸術祭までより生活がしんどい。
だいたい「増えたな」と実感すると1-2日はお腹の皮が伸びた感じで痛かったり、慣れない感じが困ってしまい。それから5-6日は、少し楽になりなんとなく同じ感じで過ごせて、また「増えたな、しんどいな」という感じの日が来る。

今回はもう流石に結構増えてるのか1-2日経っても少し楽だなとは思えなくなってしまっている。
また、羊水除去になるんだろうか。週末に久々の妊婦健診。約2週間ぶりなので久々でもないんやけど、毎日がとてもながいので久々に感じる。

とはいえ、今日から妊娠9ヶ月に入った。32週目。
なんとかかんとかここまで来れてよかったと思う。
とらちゃんは、羊水過多で胎動は感じにくいけど、それでも力強くなってきている。たまに「しゃっくりかな」と思うような、微細な動きも感じるようになった。
まだ、1ヶ月と少しはお腹で頑張って欲しいと思う。

懸案の一つだった、歯科治療がひと段落した。
順調な妊娠経過だと余裕だと思っていた治療。4月に入ってからは隆に車で送ってもらい、長期入院もなくでなんとかかんとかだった。


4月以降今の事情を話したりすると、できることは言ってと言ってくれる人が多くすごくありがたい。それぞれ事情がある中でこんなことならできると言ってくれたりする。
最初はなかなか言うのも大変で最善を尽くして生まれても1週間で死んでしまうかもしれないのにそんなに大事にすることないんじゃないか、という反応がかえってきはしないかと思う気持ちがあったけどそんなことは今のところない。いろんなことを思う人はいると思うけど、隆や新やようちゃん以外の誰にも伝えていないという状態から少しづつ知り合いに伝えていって、その時と今とは結構気持ちが変わった気がする。大事なことを伝えるということは大きな経験なんだなと思う。
というか、生まれてもすぐ死んでしまうかもしれないそもそも生きて生まれてこれるのだろうかという中でそんなに大事にすべきか1番気にしたのは自分自身だったのかもしれない。仕事のキャンセルもしたし、新も葉もいる中で動けないと隆を中心に負荷が増える。羊水過多で、子宮は普通以上に大きくなるし、静脈留もひどくなるのだろうか。自分の体はどうなるのか。産後の体はどうなるのかという不安もある。
かなり乱暴な書き方だけど、非常に大きな賭け金をかけて‥みたいな気分がなかったとは言えない。
今は、まわりも自分もしんどかったりするけどこれ自体が生きてるってことかという気分になってきた。なにか複数ある未来の選択をしてるわけではないというか。賭けたり、賭けるのをやめたりできることをしてるのではないという感じというか。
大事にして、楽しみにした分、それで何かあった時には辛いのではという気はするけど、大事にして楽しみにできた方が楽しいなと思う。過ごすということの意味が変わった気がする。これは別にとらちゃんのことに限らない。


疲れやすい。羊水過多以外に母体の異常はないようだから、重さの影響は凄まじいんだろう。
今までの臨月よりしんどい。臨月なら、だるいと思ってもどちらかというと意識的に体を動かしたけど、今はだるくて動きたくないと思ったら出来るだけそのようにしている。 
動くのは基本億劫なので子どもに怒鳴ることが増えた。近くに行って話せば済むことがなかなかできない時があるから。声だけでかくなる。


何故か今だにコーヒーが飲みたくない。ときどき飲みたいような気分になるけど、実物を見るとやっぱり違うなと思う。
飲みたくないから飲まなくてもいいっちゃ、いいんだけど、飲んでいた時のおいしかったり、気分がよかったり、一緒に飲めたりするあの感じを時々思い出す。あれができないのは寂しいなと思うようになった。

とはいえ、どんなに遅くてもあと2ヶ月ほどもあれば生まれてくる。しばらくしたら大方自分の身体はもとに戻るんだろうな。どんな生活になってるのかまだよくわからない。





May 1, 2025

4月中頃~まるネコ堂芸術祭まで。

芸術祭前最後の妊婦健診があった。これで大丈夫ならほぼ芸術祭に出れるだろうし、なんかあったらダメだなと思いながら行く。

芸術祭に出れるのも気がかりだけど、そもそも入院になると家がめっちゃ大変になる。多少やっている家事もできない。最近うちは、抱っこもできないし、しんどいからそっけないのもあり人気はないのだが、それでも新も葉も気にするだろうから隆の負担が大きくなる。助けてくれると実家の家族や友人から言葉ももらってるけど、それでも家に居れるのが断然いい。

NST(あかちゃんの心拍やうちのお腹の張りをみる)にMRI(あかちゃんの断面図みたいなのをみるのかな)にと、結構時間のかかる検査を終えて最後に診察があり帰宅できた。
会計と処方箋でそれから1時間以上で、なかなかこれで時間がかかる。

MRIの結果は多分次回。久々に次の受診まで2週間あいた!


芸術祭は楽しかった。
うちがいないかもという想定を結構してもらっての開催だった。なんか自分が頑張るより掃除もしてもらったし、いい雰囲気になっていたんじゃないかと思う。
初日の朝、朝食を作るくらいまではそれなりに動いたけど、ちょっとお腹がしんどくなってきたのであとはだいたい座っていた。

久々に会った友人に顔を見るとほっとしたわとか、思ったより元気そうでよかったとか言ってもらった。

お腹の赤ちゃんのとらちゃんが、18トリソミーの可能性があること、普通に元気でないことは「妊娠してるんですか?」とか「順調ですか?」とかいう話題になるとなんとなく話した方がいい気がしてだいたい話している。
最初はマイルドに伝えようとして、赤ちゃんは元気だけど切迫早産気味と思われたり、心配あるかもしれないけどきっと大丈夫よ(普通に元気な子が生まれるよ)、みたいに返答されてなんだか伝わらんと思ってしまっていたので、だんだん結構がっつり言うようになり相手をなんだかびっくりさせたり、なんて言っていいかわからないと言われたりして、それはそれでこれでいいのかとも考えなくもないけど伝わってはいる気がする。

前は健康であることはいいことだと思っていて、いまでも不摂生とか運動不足とかはよくないと思うけど、そもそも体が弱いみたいなことはまた別次元にあって「とにかく健康であれば」みたいなことを極端には思わなくなった。
芸術祭が始まる少し前はじめて「産まれてくるのが楽しみだな」と思った。というのもそれはとらちゃんに限らず、新の時も葉の時も意識的には思わなかった。それは多分臆病だからかもしれない。
ちょっとでも元気に産まれて家で過ごせればいいな。楽しく一緒に過ごせる仕事や生活を考えて行ければな思う。


芸術祭が終わって、さすがに疲れていた。
宇治市では妊娠8か月ごろに市の助産師や保健師の人との面談をするようになった。ようちゃんの時はなかったと思う。その人たちが来てくれた。
事前アンケートで18トリソミーかもということは伝えて、そうなった時、使えるサポート制度などあるかなど聞いていたのでいろいろ教えてくれた。
産まれてからの子どもの医療費に関してはかなり安価になるようでほっとした。訪問医療でもそんなにかからないらしい。

18トリソミーかもと言われたり、もっと前の時点で羊水検査を進められた時も思ったんだけど、普通に産もうと思えたり迷ったりできることっていうのはいい国だなと思った。
あんまりゴリゴリ調べたわけでもないけど、医療は受けれるわけだし、それなりの病気があったときにはそれなりの支援もあるようだ。そうなってみれば、それでもまだまだしんどいとかはあるんだろうけど。とりあえず、現時点で無理だと思わなくてすんでいる。


芸術祭では新が私と作ったステッカーを熱心に配ってくれた。
12種類あるステッカーを紙の封筒みたいなののなかに入れて箱に入れた。くじ引きみたいな感じで一人1枚引いてもらう。
どの柄が出るかはお楽しみ。欲しい柄が出て喜んでいる人がいたりも嬉しかった。

熱心な新の姿がよかったのか、投げ銭もそれなりにいただいた。うちは新が熱心になれるようなものがちゃんと培われていたのかということにほっとした。それに関しては全く自信がなかった。


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