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August 19, 2015

【220】フリーキャンプが終わって。

そもそも何かが始まったりしていたのかという気がする。終わったという以上は始まっていた。フリーキャンプが終わって、今だ。

最初からあったことが、覚えてはいるけれど、それがいつあったのかは、今となっては分離できずただ、まだら模様の巨大な団子のように、あの人やあの人やあの人やあの人たちやあの人やあの人がいる。

出来事というのは、何か独立して、他からは浮き上がるように、あるということになっているけれど、本当のところ図と地の区別はなく、図と図との輪郭もない。

それを区切っているのは僕の幻想だ。

幻想として、という前提として、僕らは様々な出来事を次々と体験していることにしている。幻想として、僕らは、それを楽しんだり、悲しんだりしている。幻想として、幻聴に耳を傾けるように、自分にしか起こっていないことを愛する。とても個人的な事情に僕らは没入していて、そこから抜け出すことは生きているうちはできない。

誰かがいたり、何かがあったりすることは、すべてであって、それが僕という場所に溶け込んでいる。ここで歩いている。

フリーキャンプが終わって、51分が経過。

August 14, 2015

【218】フリーキャンプの途中で。

何が起こるかわからない。がフリーキャンプだ。

何が起こるかわからない。
というのの「が」は、僕が食べた。
というときの「が」で、「僕」の意思をも含むものなのだけれど、
その意志の主体であるのがフリーキャンプの場合は、
「何」であって、
それが「起こる」、「か」が「わからない」。

「何が起こるかわからない」という文章を「私が」読むとき、暗黙のうちに、

私が、何が起こるかわからない。

という風に、
自分を設定して、
自分にとっての意志として、を読み取ってしまうのだけど、
実際にフリーキャンプの中にいると、
「私が、」の部分は、文字通り無くて、
ただたんに、「何が」が立ちはだかる。

私が、が設定されているうちは、
自分にとって好ましいことや好ましくないことというような、
方向性を持ったものとして読むのだけど、
そういう方向性の起点となる「私が、」すらなくて、
ただ、突如、どこから引き起こされたのか、
どこへ向かっているのか、
どこからも引き起こされないのか、
どこへも向かっていないのか、
がわからない「何が」が、出現し、出現し、出現し続ける。

こういう状況に居続けるのはなかなか大変なことで、
多くの状況で人は、
起点や方向性を予測している。
のがわかる。

この「予測」を前提するのは、自分である。
のがわかる。

自分とは無関係に出現し続ける「何が」は、
その予測を前提する主体とはなりえなくて、
その「何が」は、なんの「予測」も無く、
ただ、ずーんと居座っている。
あらゆる、にへばりつく。

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