何が起こるかわからない。がフリーキャンプだ。
何が起こるかわからない。
というのの「が」は、僕が食べた。
というときの「が」で、「僕」の意思をも含むものなのだけれど、
その意志の主体であるのがフリーキャンプの場合は、
「何」であって、
それが「起こる」、「か」が「わからない」。
「何が起こるかわからない」という文章を「私が」読むとき、暗黙のうちに、
私が、何が起こるかわからない。
という風に、
自分を設定して、
自分にとっての意志として、を読み取ってしまうのだけど、
実際にフリーキャンプの中にいると、
「私が、」の部分は、文字通り無くて、
ただたんに、「何が」が立ちはだかる。
私が、が設定されているうちは、
自分にとって好ましいことや好ましくないことというような、
方向性を持ったものとして読むのだけど、
そういう方向性の起点となる「私が、」すらなくて、
ただ、突如、どこから引き起こされたのか、
どこへ向かっているのか、
どこからも引き起こされないのか、
どこへも向かっていないのか、
がわからない「何が」が、出現し、出現し、出現し続ける。
こういう状況に居続けるのはなかなか大変なことで、
多くの状況で人は、
起点や方向性を予測している。
のがわかる。
この「予測」を前提するのは、自分である。
のがわかる。
自分とは無関係に出現し続ける「何が」は、
その予測を前提する主体とはなりえなくて、
その「何が」は、なんの「予測」も無く、
ただ、ずーんと居座っている。
あらゆる、にへばりつく。