August 14, 2015

【218】フリーキャンプの途中で。

何が起こるかわからない。がフリーキャンプだ。

何が起こるかわからない。
というのの「が」は、僕が食べた。
というときの「が」で、「僕」の意思をも含むものなのだけれど、
その意志の主体であるのがフリーキャンプの場合は、
「何」であって、
それが「起こる」、「か」が「わからない」。

「何が起こるかわからない」という文章を「私が」読むとき、暗黙のうちに、

私が、何が起こるかわからない。

という風に、
自分を設定して、
自分にとっての意志として、を読み取ってしまうのだけど、
実際にフリーキャンプの中にいると、
「私が、」の部分は、文字通り無くて、
ただたんに、「何が」が立ちはだかる。

私が、が設定されているうちは、
自分にとって好ましいことや好ましくないことというような、
方向性を持ったものとして読むのだけど、
そういう方向性の起点となる「私が、」すらなくて、
ただ、突如、どこから引き起こされたのか、
どこへ向かっているのか、
どこからも引き起こされないのか、
どこへも向かっていないのか、
がわからない「何が」が、出現し、出現し、出現し続ける。

こういう状況に居続けるのはなかなか大変なことで、
多くの状況で人は、
起点や方向性を予測している。
のがわかる。

この「予測」を前提するのは、自分である。
のがわかる。

自分とは無関係に出現し続ける「何が」は、
その予測を前提する主体とはなりえなくて、
その「何が」は、なんの「予測」も無く、
ただ、ずーんと居座っている。
あらゆる、にへばりつく。



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